わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

弥生時代の人口増加

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再度、小山修三さん、鬼頭宏さんのデータを元に人口増加を考える。

紀元前1000年に75800人まで減った日本の人口は、

西暦200年には594900人に増えた。さらに

西暦725年には4512200人となった。

この人口の増加は自然増だろうか移住による増加だろうか?

答えはその両方だとわかっているが一応検証してみる。

1.まず自然増だと仮定する。

日本において、急激な人口増加は明治維新後から現代に起こった。上図の右端の急激な増加を見て欲しい。数字としては1873年に3330万人だったのが1995年に12557万人だから122年に3.77倍になった。この間外国からの移住は少ないから、ほぼ自然増だ。同じ増加率で244年経ったとしたら14倍になる。

もう一つの例は1600年の関ケ原の年から1721年の江戸中期までの121年に2.5倍となった例だ。これも自然増だ。同じ増加率で363年増え続けたら15.625倍となる。

弥生時代の人口増加率は上記例ほど急激ではない。上図で接線を引いてその傾きを見ると紀元前1000年から西暦200年までの傾きは上記2例に比べてそんなに急ではない。

西暦200年と西暦725年の傾きもそれほど急ではない。

以上から、弥生時代の人口増は自然増で説明可能だ。しかし説明可能なだけだ。事実は異なるだろう。

関ケ原後に人口が急激に増加したが、1721年以降は3000万人くらいで停滞した。おそらく土地の食料生産力がリミットになった。

同様に725年以降もおおまかには人口が横ばいだ。これも当時の稲作のリミットだった。

なお、小山さんによれば稲作以前の縄文時代の狩猟採集経済では、1平方km当たり1-2人の人口を支えるのが精一杯だそうだ。そうすると日本全国37万平方kmでは37万人しか支えられない。縄文時代の人口のピークは26万人だから狩猟採集経済ではほぼ最大可能な人口を擁していた。

2.移住による増加と仮定する

日本の対岸には韓半島があり、その向こうには中国がある。韓半島はよくわからないが、中国の人口は漢書後漢書の地理志に記載があって5000万以上だ。人口は課税する上での基礎になるから、中国の役人がたぶん厳密に数えたもので信頼できるだろう。

ともかくこのような大きな人口のいくらかが気候不順や戦乱により土地を失い新天地を日本に求めた可能性はあるだろう。

仮に、紀元前1000年から西暦725年までのすべての人口増加(440万人余)が移住によるものとすると1日あたり7人以上が対馬海峡を渡って日本に来たことになる。1か月にすると224人だ。

1か月に224人という数字はどうだろう?

船の大きさにもよるのだが、、、

遣唐使の頃は100人乗り程度の船があったから、妥当な数字だとしても、卑弥呼の頃はそんな大きな船はなかっただろう。

またすべて移住による増加と考えると、725年時点で縄文人系8万人に対して移住者系(弥生系)448万人と1対50の比率になってしまう。現代の遺伝子の比率から類推される値と比べてどうだろうか?

ということで、移住のみという仮定はあまり可能性がないと思う。

以上から、稲作技術等の文明の利器をもった人々が日本に移住して、現地人にも文明の利器を伝えながら食糧増産に寄与して、全体としての人口増をもたらした、といういわば普通の結論にいたる。

卑弥呼の頃の人口分布

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さらに卑弥呼の時代の倭の人口を地域ごとに考えたい。

幸いなことに、小山修三さんの調査では、地域ごとの人口まで産出している[1][2]。

   [1] 小山修三著「縄文時代中公新書 1984

   [2] 鬼頭宏著「人口で見る日本史」

それによると

北九州    40500 人

南九州    64600

山陽     48900

山陰     17700

畿内     30200

畿内周辺   70300 

東海     54400

北陸     20700

甲斐信濃飛騨 85100

とある。

こうしてみると我々が普通にイメージする文明の発達度とかなり異なる結果だとわかる。

例えば、北九州とか畿内の人口が他地域に比べてむしろ少ない。南九州が北九州に比べて多い。畿内畿内周辺に比べて少ない。内陸の甲斐信濃飛騨は面積が大きいとはいえ多くの人口を抱える。東海も多い。出雲のある山陰はずいぶん少ない。等々。

我々が普通にイメージする文明の発達とは、稲作が鉄と共に韓半島を通して日本に到達した。従って弥生文化(弥生文明と言うほうが適当か)は北九州から始まった。それは西へと伝播して、大和地方や出雲地方に根付いていった。というものだ。

そうした文明の発達経路と、上記人口分布とはどうも整合しないように見える。

敢えて言うと、邪馬台国がたった3万人しかいない畿内にあったろうか?

北九州より人口の点で優位な南九州にあった方が考えやすいのでは?

一方で、より高度な文明をもった部族が未開の広野を目指して北九州から征服の旅を続けて畿内に落ち着いたとも考えられる。

 

倭の総戸数15万戸について

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昨日、西暦200年頃の、遺跡から推量した日本全国の人口が60万人に対して、魏志倭人伝に登場する国の総戸数15万戸が、まあ桁が合っているし、どちらも10倍くらいの誤差もありうるから納得できる、とした。

今回は、15万戸についてもうすこし考えよう。

15万戸のうち、邪馬台国が7万戸、投馬国が5万戸だからこの2国で12万戸と大半を占める。

ところがこの2国の戸数は「可」を使うから推量で記した。私の考えでは中国の使節邪馬台国にも投馬国にも行っていない。行っていないから単に倭人に聞いて7万と5万と記した。更に当時の倭人が「万」という単位を持っていたかどうかもあやしい。「千」の単位は持っていたと思う。「ち」と発音する。「ちよにやちよに」の「ち」だ。そうした倭人邪馬台国の大きさを表現する時には例えば「奴国よりずっと大きい」という表現をしただろう。それを受取って使節は7万人とした。投馬国も同様だ。

という事で15万戸のうち12万戸は不確実な数だ。

残り3万戸は使節が見聞した国々だから確実かというとこれもあやしい。例えば奴国の戸数は2万戸と断定しているけれども、使節は2万まで数えただろうか。これも「えいやっぱ」と決めただろう。千戸でも数えるのは大変だ。倭人に聞いても具体的数字などは期待できないだろう。ただ、中国の集落を見た経験からある程度妥当な数字は出せるかもしれない。

しかも、数字には誇張されている可能性もある。使節が皇帝に報告する時には自らの業績を大きく見せるためにどうしても誇張が入る。どうも10倍くらい誇張がはいるのではないか、という事を孫栄健さんは、三国志魏書国淵伝にある軍事報告から論じた[1]。

   [1] 孫栄健著「邪馬台国の全解決」2018/2/15

今でも、軍事報告について10倍の誇張というのはなんとなく納得できる。敵の被害は1/10にしてみると割と妥当な数字になる。(余談だがベトナム戦争の時の米軍発表では実に多くの北ベトナム側兵士が戦死している。これなども1/10にすると妥当な数になったと記憶する。)

ともかく、使節が皇帝に報告した数字は10倍誇張されているとみるのがむしろ自然だろう。

そうすると、魏志倭人伝の15万戸は1万5千戸となって、一戸あたり4-5人で計算すると6-7万人の人口となる。遺跡数から推量した日本全体60万人と整合するように思う。

 

同時期の楽浪・帯方2郡の合計の戸数は

後漢書地理志では61492戸

晋書地理志では8600戸

となっている。

また、三国志魏書東夷伝では韓半島の戸数が、

馬韓(後の百済)十数万戸

弁、辰韓 四五万戸

とする。こちらも誇張がありそうだ。

ともかく、倭の戸数を馬韓と同程度の戸数としたところに政治性を感じてしまう。

つまり魏は、呉を側面から牽制できる強国としての「倭」を期待した。

それは、西の強国「大月氏」に与えた「新魏大月氏王」という称号と同様な「親魏倭王」を与えたことから推察できる。

そうした「倭」は、少なくとも韓半島と同程度の戸数を擁する強国でなければならない。そういう政治的配慮から倭の戸数を水増ししたこともありうる。

卑弥呼の時代の日本の人口は60万人だった

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西暦200年の人口は約60万人。725年には450万人。紀元前900年には7万6千人。

上図をじっくり見ていただきたい[1][2]。

   [1] 鬼頭宏著「人口で見る日本史」

   [2] 小山修三著「縄文時代中公新書

横軸は年、縦軸は人口だけど対数目盛であることに注意する。

一見、縄文時代(紀元前7000年から紀元前1000年くらいまで)が非常に長い事に気づく。比べて現代などはおまけ程度に見える。

 

卑弥呼が魏へ使者を送ったのが西暦238年(西暦239年説もある。)だから上図の西暦200年がたまたま時期的に合致する。

卑弥呼の時代の日本の人口は60万人だった。

ただし、このデータは遺跡の数から推定した人口[2]だから実際値との差は非常に大きいと思う。私の勘では10倍大きくても、あるいは1/10でも驚かない。

   [2] 小山修三著「縄文時代中公新書

一方、魏志倭人伝に登場する国の戸数の合計は15万戸だ。一戸当たり4-5人とすると60万から75万人となる。

上記推計とまあ桁は合っているけれども、魏志倭人伝に登場する国という部分が日本全国という全体より多いのはおかしい。

古代中国では軍事の報告(捕虜の数など)は10倍さばを読むらしいから、魏志倭人伝の数字も10倍さばを読んでいるかもしれない。

という事で、この頃の数字には常に誤差がつきまとう。

しかし、両者共に10倍程度の誤差を想定して読めば、割と整合している事にむしろ納得できる。

 

話変わって、上記図では、縄文時代に26万人にまで膨らんだ人口が縄文末期に76000人に減った。これは気候が寒くなったせいらしい。それまで採れていたどんぐりなどの食料が寒冷化により採れなくなったせいだ。

それが、稲作が入って食料の生産力が増すとともに韓半島からの人の流入があって、人口もじわじわ増えて西暦200年には60万になり、725年には450万になった。

西暦800年頃から1300年頃は人口の停滞期だ。

その後再び増えだして関ケ原の戦いの頃(1600年)に1200万だ。

江戸期は大体3000万近辺で上下する。

明治維新後は急激に増加してピークで1億3000万近くまでいった。

現在は少子化により減少している。

 

卑弥呼の時代の銅鏡の用途

 

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卑弥呼の時代の銅鏡の用途を想像できるだけ箇条書きにしてみた。

1.化粧用

   鏡として顔を映すのに使った。銅のみでは10円玉のように赤くて光の反射率が低いから、錫を多く入れた白銅が材料だろう。鏡面は平坦か凸の方が顔全体を映し出して便利だったろう。墓の発掘時に一枚だけ頭の近くに置いてある鏡は、故人が日用に使っていた鏡だと想像する。

2.点火用

   古代において火を起こすのは意外と大変なことではなかろうか。凹面鏡でもって火を起こすのは太陽さえ出ていれば楽なことだと思う。この場合鏡面が凹であることが必須だ。材料はやはり錫の多いものだ。

3.儀式用

   鏡を使ってマジックのような神事を行ったと想像される。具体的には2.と同じく火を起こしてみせた。凹面鏡が必要だ。その他の具体的儀式は思いつかない。

4.刑罰に使用

   犯罪人を罰するために凹面鏡の光の焦点に犯罪者の体を置いた。これは犯罪者にとって猛烈に熱く恐怖だったに違いない。太陽神が自ら罰を加える刑とみなされる。

5.通信に使用

   遠くの人に光で合図を送った。古代の光通信だ。この場合は平坦な鏡が要る。

6.威信財

   単に偉い人がもつもの。国会議員のバッジみたいなものだ。魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡100枚を贈ったのは、倭のそれぞれの国の王に与えるようにとの意味かもしれない。この場合は鏡としての機能は、鏡が鏡であるために必要ではあるが、あまり重要でない。鏡面は凸でも凹でもいい。赤みが強くてもかまわない。

7.貨幣

   中国では銅は銭の材料でもあった。鏡も一種の貨幣とみなされたかもしれない。つまり、交易を行う上で代金として銅鏡を使ったということもあるかもしれない。三国志東夷伝によると弁辰(韓半島弁韓辰韓)は鉄を産し鉄を中国の銭と同じように使うとある。このことから、鉄とか銅とかそして金とかの金属類が貴重品として貨幣のかわりをしていたと想像する。

8.他の青銅器の原料

   日本では、銅鏡、銅矛、銅剣、銅鐸などがどういうわけか皆巨大化していった。しかし、銅が日本で見つかるのは西暦708年の和同開珎の頃だから、それまでは、銅材料は中国、韓半島からの輸入に頼っていたらしい。沢山の鏡が鋳つぶされまた再生したに違いない。それにしてもなぜこれほど多く大きな銅鏡、銅矛、銅剣、銅鐸が作られたのだろう。鉄器と比べてあまり実用性があるとは思えないのだが・・・

   

 

卑弥呼の時代の銅鏡の用途は?

卑弥呼の時代の銅鏡の用途は?

と改めて想像してみたい。

できれば、複数個の用途を考えて箇条書きにしたい。

明日、私の考えをまとめる。

 

そのためのキーとなる事実を述べる。以下は私の主観で書いた。

1.卑弥呼への皇帝の贈り物は銅鏡100枚だ。1枚でもないし1000枚でもない。つまりめちゃくちゃ価値が高いものではないけれども、それ程安価なものでもない。

2.日本全土で銅鏡は4000‐5000枚位出土しているらしい。うち三角縁神獣鏡は600枚くらいか。こうした数字は、発掘数に比例して増える。

3.銅鏡は中国製のもの、楽浪・帯方製のもの、日本製のものがあるらしい。どうやって産地を判断したか私は知らない。

4.中国では、銅は青銅器、鏡、銭の材料として使われていた。三国志に記述があるように古い品物を鋳つぶして新製品を作ってもいたらしい。

5.初期の鏡で鏡面が凹のものもあったのを除けば、おおむね鏡面が凸らしい。

6.10円玉からわかるように銅は赤い。スズを増してゆくと白っぽくなる。

7.鉛を意図的に入れているらしい。その理由は融点を下げて製作を楽にするためだろう。

 

 

 

 

 

鏡師張氏とは?

 昨日「張氏車騎神獣画像鏡」が三角縁神獣鏡では???と書いた。

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 そこで、張氏作の鏡を王仲殊著「三角縁神獣鏡」[1]から探した所2面あった。

   [1] 王仲殊「三角縁神獣鏡」1998

第1が、胡陽張元環状乳神獣鏡(#81) で外側銘文の冒頭に「呉郡胡陽張元...」とある。銘文全体は内側が12文字、外側が47文字。直径11.6cm。

第2が、張氏作重列式神獣鏡(#105) で銘文の終わり近くに「...張氏元公...」とある。銘文全体は71文字。直径13.7㎝。王仲殊さんはこれも張元作らしいとする。

いずれも三国時代の呉でつくられたものらしい。

ということで、張氏もまた呉の鏡師らしい。

上記2個の鏡は小型であり、「三角縁」ではなさそうだ。

銘文はかなり長い。

最初に記した「張氏車騎神獣画像鏡」も写真から判断すると銘文が長そうだ。

しかし後漢の時代のものとされているから、関連性はわからない。

 

呉の鏡師としては陳氏のほうが有名らしい。

そうして、日本出土の「景初3年」、「景初4年」、「正始元年」の紀年銘鏡はいずれも「陳是作鏡」とあって陳氏の作だ。

 

卑弥呼が魏に朝貢した頃、呉では陳氏や張氏が盛んに鏡を作っていた。

そうしてそれらの鏡が倭にもはいって来た。

そのきっかけはやはり魏の皇帝が贈った銅鏡100枚だったと思う。

魏と呉は対立関係にあるとはいえ、三国志によれば一方で交易も行われていたから、呉の鏡が魏を通して倭に入ったと考える。