わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

中国の干支(えと)について

干支(えと)というと今年2018年は戌(いぬ)という。来年は亥(いのしし)でその次は子(ねずみ)に戻る。順番は

子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥

(ね・うし・とら・う・たつ・み・うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い)ー訓読み

(し・ちゅう・いん・ぼう・しん・し・ご・び・しん・ゆう・じゅつ・がい)ー音読み

となって12支を構成する。これは干支の支のほうにあたる。

一方、干の方は10個で

甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸

(こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き)

となる。

中国人は干支で通し年号を作った。例えば今年2018年は戊戌(ぼじゅつ)年、来年は己亥(きがい)年、再来年は庚子(こうし)年、その次は辛丑(しんちゅう)年となる。つまり干のほうと支のほうがそれぞれ1個繰り下がる。

こうすると10x12で120個の干支年ができそうだが、実は最小公倍数の60個しかできない。例えば、干支の最初は甲子(こうし)年で、次が乙丑(おつちゅう)年となるが、甲丑や乙子は年として存在しない。

中国では司馬遷史記よりもさらに古くから通し年として干支を使っている。日本も中国との交流が深まってから干支を使い始めた。

例えば壬申(じんしん)の乱は干支で計算すると確かに672年になる。

卑弥呼が魏へ使者を送ったとされる238年は戊午(ぼご)となる。なお238年は楽浪郡帯方郡を支配していた公孫氏が滅びた後の239年との説もある。

古事記に、崇神天皇が戊寅(ぼいん)年に崩御されたとある。これは318年か258年と考えるのが妥当だ。古事記にはその前後の天皇崩御年が記載されていないために、どちらかはわからない。ともかく、崇神天皇卑弥呼とかなり近い時代に生きていたこととなる。

このように60年周期だから古い年になると、どちらかわからなくなる点が干支の欠点だ。間違いも起こる。日本書紀卑弥呼神功皇后とした記述があるけれども、これは120年間違っている。

もう一つの欠点は年数計算がものすごく厄介になる点だ。やってみると本当にめんどくさい。私はエクセルで60個の干支年の西暦との対応表を作った。その対応表からようやく西暦1年が辛酉(しんゆう)年に対応することがわかった。(本題から外れるが、西暦1年の前年は紀元前1年であって西暦0年は存在しない、事を、68年生きて最近ようやく知った。)

昔の中国史家でも干支には頭を悩ませたと思われる。逆にめんどくさい干支を理解している事が、中国史家のエリートの条件のひとつだと思う。(他の条件は、1.文字が読め書ける、2.歴史を理解している、3.未来に名を成す気概を持つ、等)それがわかるのが司馬遷史記の中の年表だ。そのさわりを下に示す。下表の左列の紀元前は西暦であって現代人が加えたものだから除外して、その他は司馬遷の作だろう。年(通し年)の欄に所々干支が加えてある。特に甲から始まる干支は皆記載してある。下の例では甲子から甲戌までちょうど10年だから数えやすい。こうして年の計算を楽にしている。

下記年表はWikipedia 史記から抜粋して引用した。

紀元前
841 庚申 共和元年厲王子居召公宮,是為宣王。王少,大臣共和行政。 真公濞十五年,一云十四年 武公壽十年 靖侯宜臼十八年
840   十六 十一 晉釐侯司徒元年
839   十七 十二
838   十八 十三
837 甲子 十九 十四
836   二十 十五
835   二十一 十六
834   二十二 十七
833   二十三 十八
832   二十四 十九
831   十一 二十五 二十
830   十二 二十六 二十一 十一
829   十三 二十七 二十二 十二
828   十四宣王即位,共和罷。 二十八 二十三 十三
827 甲戌 宣王元年 二十九 二十四 十四