魏志倭人伝には「南北市糴」という語が2度出てくる。
この意味は南北へ行って(主に米を)交易するということらしい。
一度目は対馬で、二度目は壱岐で、それぞれの島の島民が船に乗って「南北市糴」している。
という事は、韓半島と北九州の間で交易があったという事だ。交易というからには行き当たりばったりではなくて、ある程度計画的に日常的に船で往来していたと想像する。
当時の船で、当時の航海術でつまり羅針盤もない時代にそんなことが可能だろうか?
当時の船と考えられる船を作って実験航海をした例がふたつある。
(1)まず角川春樹さんが「野生号」で韓半島から対馬壱岐北九州と渡海した。しかしこれは一部曳航してもらっている。
(2)なみはや号というのが作られたが、ボートの上に別の船を乗せたような構造であって、とても渡海できるような代物ではなかった。安定させるために重しをたくさん積みこんで他の船に曳かれてようやく対馬海峡を渡ったそうだ。
他には知らない。
最近ではどういう理由でか冬の対馬海峡をゴムボートで渡ろうとして亡くなった公務員がいた。ゴムボート自体は北風にあおられて北九州に流れ着いたらしい。
では「南北市糴」は実証できていないのだろうか?
直接的には実証できていないように思う。
しかし傍証として、隠岐島から松江まで5-6人が乗れる丸木舟で渡った例がある[1]。
[1] 「縄文の丸木舟日本海を渡る : 縄文時代の再現に挑んだ教師達の記録」 からむし会編、1982年
この例では56kmを12時間43分で渡った。時速は4.4kmだ。
昼間の長い夏ならほぼ一日で行ける。
もしも夜になって目的地が見えなくなると危ない。対馬海峡などは深さ100mくらいあるから、錨を下ろして船を止めておくことができない。船が流される。流されると大海原では自分自身の位置がわからなくなってしまう。つまり漂流する。
従って、日中に目的地が見えるうちに一気に渡海しなければならない。
それでも時間がかかって夜になることもあるだろう。そういう時は、目的地で灯台になるように火を焚いてもらったかもしれない。「烽火」というのがそれではないだろうか。
私が想像するところでは、韓半島から対馬へ、対馬から壱岐へ、壱岐から北九州へ、それぞれを一日で一気に渡海したと考える。
なお、上記縄文の丸木舟では海の波でひっくり返るのではないか、という懸念をもつ人もいる。その通りではあるけれど、上記の学校の先生方は実際に渡海している。海が荒れていない時を見計らえば可能だろう。
あともう一つ上記先生方の経験としては海流の影響が意外と小さかった事だ。海流の速度も計算に入れて漕ぐ方向を決めたのにそれが少ないから方向を修正した。たぶん丸木舟が、風の向きに動く表層流の範囲内に浮かんでいたのだろう。