わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

其地無牛馬

魏志倭人伝

其地無牛馬 (倭の地には牛も馬もいない)

とある。卑弥呼の時代に倭の地(北九州)には牛や馬はいなかった、と三国志の著者陳寿は断じている。

今は馬だけ考える。

本当に馬はいなかったのか?

どうもいなかったらしい。当時の遺跡で馬の骨がみつかった事があるらしいが、どうも後世の馬の骨が混ざりこんだらしい。馬はいなかったらしい。

では、海の向こうの韓半島はどうか?

魏志倭人伝の前に韓伝がある。そこに

不知乘牛馬  (牛や馬に乗る事を知らない)

とある。またその少し後の弁辰の所に

乘駕牛馬  (牛や馬の引く駕篭に乗る、の意味か?)

ともある。どうやら馬に乗る事はしないが、馬自体はいたようだ。

韓半島に馬はいて倭の地にはいなかったとはどうしてか?

ただ単に偶然そうだった可能性もある。

しかし、これは馬を運べる船がなかった、と考えたい。韓半島から北九州に進出した天皇族は当然に馬を運びたかった。しかし、運べるだけの大きな船がなかった。

馬を運ぶにはどのくらいの大きさの船がいるか?

矢切の渡しというのが今でも寅さんの柴又と千葉県市川市とを結んでいる。船頭一人で漕げる小さな船だが、馬も渡したらしい。人はいくら、馬はいくらと決まっていた。

しかし、矢切の渡しの船ではおそらく外洋の波の高いところでは馬は無理だろう。まず揺れる。そして馬はいつでも立っているからバランスを崩すに違いない。まさか馬を縛って十何時間も船底に置いておくわけにもいかない。

という事で、馬を乗せて対馬海峡を渡れるような船は当時まだなかった、と考える。

従って、倭の地には馬が、まだ、いなかった。

ただこれは時間の問題だった。というのは当時の呉の国では80頭もの馬を乗せるような大きな船があった。三国志呉主伝に高句麗の王が数百匹の馬を献上したが、船が小さくて80匹を持って帰った、とある。

そうした大きな船を倭人も作る事ができるのはもう少し後になる。

そうして馬が倭に入った時から古墳文化が一変する。