卑弥呼の時代から150年程経つと倭の五王が中国の史書に登場する。
允恭天皇の崩御年を加えることにより倭の五王との関連性が見やすくなったから、ここで、古事記の崩御年と中国史書に登場する倭の五王の年代を並べてみよう。
対応する天皇は、応神→仁徳→履中→反正→允恭→安康→雄略 の各々の天皇だ。
天皇 | 古事記の崩御年 | 倭の使節が朝貢した年 | 中国史書記載の倭王名 | 中国王朝 |
応神 | 394 | |||
413年 | — | 東晋 | ||
421年 | 讃 | 宋 | ||
425年 | 讃 | 宋 | ||
仁徳 | 427 | |||
430年 | — | 宋 | ||
履中 | 432 | |||
反正 | 437(7月没) | |||
438年 | 珍 | 宋 | ||
443年 | 済 | 宋 | ||
451年 | 済 | 宋 | ||
允恭 | 454 | |||
460年 | — | 宋 | ||
462年 | 興 | 宋 | ||
安康 | — | |||
477年 | 武 | 宋 | ||
478年 | 武 | 宋 | ||
479年 | 武 | 南斉 | ||
雄略 | 489 | |||
502年 | 武 | 梁 |
まず、応神天皇は最初の朝貢(413年)の前に崩御されているから倭の五王には該当しない。
仁徳⇒讃
履中
反正
允恭⇒珍、済
安康⇒興
雄略⇒武
となって允恭天皇が珍と済の両方となる他は大体それらしくなる。
ところで珍の朝貢(438年)の前年7月に反正天皇が崩御されているから、実はこの朝貢は反正天皇によるものとしたい。朝貢の船が出た後で反正天皇が崩御された。朝貢の船は倭に戻った時初めて反正天皇の崩御を知る。
そうすると以下になる。
仁徳⇒讃
履中
反正⇒珍
允恭⇒済
安康⇒興
雄略⇒武
讃が仁徳天皇であって、珍が反正天皇なら、親子関係のはずだが、宋書は、珍を讃の弟と言う。辻褄が合わない。
これはたぶん通訳時のコミュニケーションミスだろう。
倭の使者が「現王は前王履中天皇の弟だ。」と言ったのを、中国側が前王を讃と間違って解釈した。本当は前々王が讃だ。
前王履中天皇の時も一度朝貢したが、この時の倭王の名前は記載がない。記載がないという事で、前々王の讃と中国側は解釈した。つまり中国側は仁徳天皇の次が反正天皇だと解釈してしまった。
次に稲荷山古墳から出土した刀の銘から雄略天皇が471年には天皇である事がわかる。従って477年、478年、479年の朝貢は雄略天皇だ。
ところでこのように毎年朝貢するものだろうか?少なくとも479年は南斉の王朝樹立の祝賀会だから、雄略天皇が積極的に働きかけたものではなさそうだ。
502年の武の朝貢は明らかにおかしい。雄略天皇は489年に既に崩御されている。
502年は梁の武帝の王朝樹立に伴う祝賀会であって武を鎮東大将軍に進号させている。
しかしこの頃には山東半島が北方民族に占領されて陸地沿いには行きづらいから、倭の使節ははるばる中国南部に押込められた梁まで行っていないと思う。倭の側から見れば途中の陸地沿いの海路で苦労してまで、梁に朝貢する価値がない。
使節がいないから当時の倭王の名を知ることができずに昔の名前、武を使った。
とはいえ、全く倭人がいないでは称号を与えるのに恰好がつかないからその辺にいる倭人を代理に使った。その貧相な倭人の姿が梁の職貢図として現代に残ってしまった[1][2]。
[1] Wikipedia 職貢図 にその絵がある。
[2] 鈴木靖民、金子修一「梁職貢図と東部ユーラシア世界」(2014)