朝鮮の新羅・高句麗・百済の三国時代の歴史を記した「三国史記」の新羅本記に卑弥呼が登場する。
173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)[1]
[1] Wikipedia 「倭・倭人関係の朝鮮文献」 から引用した。
西暦173年に倭の女王卑弥呼の使者が新羅へ来た、と朝鮮の歴史書は記す。
どうしてこのような記述があるだろう?
中国の三国志魏志倭人伝では、西暦238年に卑弥呼が魏に使節を送った。
その65年前に同一人物が韓の新羅へ使者を送っている、のはどうだろう、考えにくいのでは。
干支を60年間違えたとして西暦233年に卑弥呼が新羅に使者を送ったのならありそうだ。
そもそも、西暦173年の段階で新羅は存在したのか?
魏志倭人伝は実は三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝の部分に過ぎず、その東夷伝の韓の条の弁辰24か国の一つの斯盧國が新羅らしい。
従って、新羅という国は卑弥呼の時代に存在して、倭と交流とか戦いとかしていたらしい。面白いのは倭が戦いを仕掛けるのは常に春か夏だ。つまりその季節に対馬海峡を渡った。逆に冬とかで北風の激しい時はとても渡海できない。
ところで三国史記が完成したのは高麗の時代の1145年だ。実に卑弥呼の時代から900年も経っている。
著者は、残存した朝鮮の歴史資料やら中国の史書やら、あるいは日本の資料やらをかき集めて三国史記を構成したに違いない。
「卑弥呼」という中国と同一の漢字を使っているのも三国志等から引用した事を示していると思う。
「卑弥呼の使者が来た」とわざわざ三国史記に挿入したのはなぜか?
実際に使節が来たか?
それとも、新羅の優位性を主張したかったのか?
なぜ西暦173年にしたか?
想像力を働かせても理由がわからない。腑に落ちない、という事でとりあえず終わる。