わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

倭から洛陽へ

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魏志倭人伝によると西暦238年に卑弥呼の使者が帯方郡を経由して洛陽に到着した。

その行程はすべて船だろうか?

わからないが、海路の方が早いし距離が短い(直線距離)から、船を主に使っただろう。

まず北九州から壱岐へ渡海し、次に対馬へ渡海し、さらに韓半島へ渡海する。

韓半島の沿岸沿いに、西に向かい、そうして北に方向転換して、帯方郡に着く。

帯方郡の太守劉夏がこれを迎えて、官吏を付けて洛陽に向かわせる[1]。

   [1] 太守劉夏遣吏將送詣京都

魏の官吏は面子にかけて野蛮人の船に便乗することはできないだろうから、おそらく帯方郡からは魏の船を使った。

遼東半島の南岸に沿って西に向かい、その西端から渡海して山東半島に行く。

遼東半島から山東半島までは102kmもあって一気に渡海はできないけれど、幸いなことに両半島の間に島がいくつかある。遼東半島から最初の島までが41kmだから何とか1日で行ける。その後は島が列を成しているから島伝いに行けて、山東半島に到着する。

山東半島から洛陽までは船で黄河を遡るか、陸路を使う。

唐六典[2]では

   [2] Wikipedia 「唐六典」

荷物を積んだ船で黄河を遡る場合は1日に30里。

陸路の歩きでは1日に50里。

とあり陸路が早いから、洛陽へ行く時は陸路を使ったかもしれない。

また、船で黄河を下るときは1日150里。

とあって、洛陽からの帰りは船を使って楽しただろう。

ところで、上の陸路の歩きでの1日の行程について、当時の1里を400mとして

1日50里=20km

となる。歩きの時速4kmとして正味5時間分だ。ちょっと少ないような感じもするが、当時の整備できていない道で軍などの多人数を動かす場合はこんなものかもしれない。

以上、当時の船の実力から見て、海を渡るのはできるだけ避けたと思う。陸地に沿って、あるいは島伝いに航路を取り、夜は港に入って船が流されないようにする。それが時間がかかるけれど安全確実な方法だ。