わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

卑弥呼の使者は景初2年か3年か

f:id:Aki104:20181109105141j:plain

魏志倭人伝では卑弥呼の使者は景初2年(西暦238年)の6月に来ている。

一方、梁書では景初3年(西暦239年)とする。いわゆる学会の通説も景初3年とする。

なぜ景初3年が多いかと言うと、その時には独立勢力として楽浪郡帯方郡を支配していた公孫淵が滅びていないからだ。滅びるのは卑弥呼の使者が来た2カ月後の8月だ。公孫淵が滅びていないのにどうして倭の使者が魏まで来ることができたか?できないだろう。

という事で、梁書はさりげなく「景初3年に公孫淵が滅びて後卑弥呼が遣使した」と記述する[1]。三国志には「景初2年」とあるのを暗に認めているような書きぶりだ。

   [1] 至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢 

    wikipedia 梁書海南諸國 東夷西北諸戎列伝

そうして、現在の学会の通説も梁書を支持する。

しかし、魏の明帝が景初3年正月に亡くなっているため、たった1年の差で風景が随分変わってくる。

景初2年なら、明帝が卑弥呼の使者を謁見する。詔書も明帝の名前で与える。

景初3年なら、8歳の新皇帝が謁見することになる。

魏志倭人伝に記載されている詔書の全文は、これはやはり(8歳の新皇帝の形式的代筆ではなく)壮年期の明帝の心が反映されているとみたい。勿論明帝の場合でも代筆ではあろうが。

当時、魏は南の呉に悩まされている。特に海上では呉に押され気味で呉の船が山東半島まで進出している。呉の東の海の向こうに倭人がいると考えられていたから、そうした倭人が呉を牽制することも期待したに違いない。

魏の明帝が「親魏倭王」の称号を卑弥呼に与えた、と考えたい。

他に同等の称号は229年に同じく明帝が大月氏の波調へ与えた「親魏大月氏王」のみらしい。

三国志の著者陳寿は、上記のような疑問が出るのも承知で景初2年にした。というのはそれが「事実」であり明帝が事実謁見したから。

 

以上、私としては魏の明帝が景初2年に卑弥呼の使者を謁見したと考えたく、公孫淵が滅びる前に倭の使者が魏の洛陽に到着できた理由を次回考える。