わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

倭と呉は直接交易できたか

三国志の時代に、倭は(魏を差置いてその南の)呉と直接交易できたか?

なぜそのような疑問をもつかというと;

1.古事記に「呉」は出てくるが「魏」は出てこない。

2.そもそも弥生時代の米は中国南部(つまり呉の地域)から来ている。これも交易の結果だろう。

3.王仲殊氏は呉の銅鏡製作者が倭に渡って三角縁神獣鏡を作ったと主張する[1]。

  [1]王仲殊著「三角縁神獣鏡」1992年

などがある。

私としては、直接交易は、600km以上の大海を渡らねばならず、不可能だった、と考える。

たとえば、500年後の遣唐使を見てもらいたい。彼らは陸地沿いの北路(卑弥呼使節が通った航路)を新羅との対立により使う事が出来ずに、東シナ海を直接突っ切った。

結果多くの船が漂流したり難破したりした。

当時の技術では、大海原に取残されると自分がどこにいるか全く分からなくなる。太陽と星の位置から方向はわかるからひたすら西に中国本土があると信じて西に向かう事になる。帰りはもっと難しく、東にひたすら進んで日本のどこかに着くことを信じる。仮に南に行過ぎて沖縄列島のすき間を通って島影を発見できなかったら太平洋に出てしまってどちらにいくのか全くわからなくなる。

例えば600kmの距離を時速5kmで進んだとして120時間=5日だ。

順調なら行けそうな距離だが、安全確実とは言えない。

交易をするならある程度の確実性がいる。従って直接交易はできない。

 

しかし、卑弥呼使節が用いた北路を使って、陸伝いに行くことはできる。

その場合には、陸の統治者と友好な関係が必要だ。敵対するなら贈り物(=賄賂)により見逃してもらう。

呉に行くには魏の沿岸を通る必要がある。

魏の軍に捕まって呉に行くと知られたらおそらく命がない。

それでも行くといういわゆる密航者はいつの時代でもいただろうが少数派だろう。

 

沿岸の治安が悪くなると密航者の力が強くなる。後の時代の倭寇などはその例だろう。