わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

卑弥呼もって死す(卑彌呼以死)

魏志倭人伝

卑弥呼もって死す(卑彌呼以死)

とある。ここでなぜ単に「卑弥呼死す」と言わずに「もって(以)」を加えたか?

そういう疑問が出る理由は、

卑弥呼が狗奴国の男王卑彌弓呼と素より不和だった;

遣塞曹掾史(中国の役職)の張政が詔書(皇帝の信書)と黃幢(?)をもって難升米(卑弥呼の使者のトップ)に対して檄をとばして告喻した;

直後に「卑弥呼もって死す」とあるから、卑弥呼の死は自然死とは考えにくいだろう。

という事で、「以死」の使い方を岡本健一さんが史記(38例)、三国志(33例)、新唐書(56例)、25史(761例)すべてについて調べて自然死はなかった[1][2]と結論した。自然死でないというのは殺されたか、自殺したか、あるいは事故死だ。

   [1]  森浩一著「魏志倭人伝を読みなおす」2010年

   [2] 石野博信・水野正好・西川寿勝・岡本健一・野崎清孝著「三角縁神獣鏡邪馬台国倭国」2006年

ここで、張明澄さんはどう言っているか。「”以”は助詞であって言葉のニュアンスを整える作用しかなく、実際の意味をもっていない」とそっけない[3]。「言葉のニュアンスを整える」というのがこの場合はどういうことか知りたいのに。その張明澄さんは卑弥呼は殺されたとみる。

   [3] 張明澄著「誤訳だらけの邪馬台国」1992年

以上、魏志倭人伝からわかる事だ。

 

これ以下は私の想像だ。

狗奴国の卑彌弓呼との対立で卑弥呼は魏に助けを求めた。しかしその頃の魏は政情不安であって援助することもできない。遠いから軍を送る事もしない。

ただ張政に肩書を付けて、通り一遍の詔書(皇帝の信書)と黃幢を持たせて難升米に檄をとばした。檄の内容は書いてない。軍事力を持たない張政にできるのは調整役でしかないから、「仲良くせんかい!」ぐらいだろう。

それも張政が九州にいて檄を飛ばすだけだから、遠く邪馬台国ではあまり効果はない。追い詰められた卑弥呼は神の代理人だから捕らえられるわけにはいかず、(捕らえられてしまっては神の代理人としての権威がなくなるから)やむなく自死した。

狗奴国も卑弥呼の死により攻撃をやめた。

倭国内では男王を立てたけれども、収まらず、結局卑弥呼の宗女(後継者~神に仕える女性か)台与を立てて収まった。

卑弥呼の宗女を立てて収まったということは、卑弥呼の神の代理人としての権威あるいは女王としての権威が未だ保たれていたことを示す。

卑弥呼の大いなる塚(墓)を作ったのも権威が衰えてない証左だ。