中国の歴史書といえば、時代の順に、まず「春秋」があり、前漢初頭までの「史記」があり、そして前漢をカバーする「漢書」がある。
順番からいえば次は「後漢書」だけれども、陳寿さんは「後漢書」をすっ飛ばして、いきなり「三国志」を書いてしまった。
想像するに、陳寿さんは、200年も続いた後漢の歴史を書くか、直近45年の三国の歴史を書くかすこし悩んだ。そして、退屈な200年よりも45年の面白い現代史を、当然に、選んだ、と想像する。
その「三国志」は当初から評判が良かったらしい[1]。
陳寿さんは結構ウケをねらうのがうまかったかもしれない。
もちろん後世に残るほどのものを書いたのだから並の才能ではない。
ともかく陳寿さんが「後漢書」をすっ飛ばしたおかげで、次の史家には後漢書が宿題として残されてしまった。
後漢の時代は200年の長期だから資料は膨大なものだろう。とても単独ではやりきれない。
しかも時代は南北朝であって、王朝がころころ変わって政情は不安定だ。
そうした中で東晋の後を継いだ宋(劉宋)の時代に范曄さんがなんとか「後漢書」を作り上げた。
宋の時代は59年しか続かなかったから決して安定政権とは言えなかった。范曄さんもチーム作りに苦労したと想像する。そうした中での仕事だった。
その范曄さんは謀反に加担したとして殺されてしまった。
范曄さんと同時代に裴松之さんがいて、「三国志」に詳細な註をつけた。おかげで「三国志」がさらに面白くなった。のちに三国志演義につながる[2]。
范曄さんと裴松之さんの間に交流があったかどうかはわからない。