わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

卑弥呼の時代の日本の人口は60万人だった

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西暦200年の人口は約60万人。725年には450万人。紀元前900年には7万6千人。

上図をじっくり見ていただきたい[1][2]。

   [1] 鬼頭宏著「人口で見る日本史」

   [2] 小山修三著「縄文時代中公新書

横軸は年、縦軸は人口だけど対数目盛であることに注意する。

一見、縄文時代(紀元前7000年から紀元前1000年くらいまで)が非常に長い事に気づく。比べて現代などはおまけ程度に見える。

 

卑弥呼が魏へ使者を送ったのが西暦238年(西暦239年説もある。)だから上図の西暦200年がたまたま時期的に合致する。

卑弥呼の時代の日本の人口は60万人だった。

ただし、このデータは遺跡の数から推定した人口[2]だから実際値との差は非常に大きいと思う。私の勘では10倍大きくても、あるいは1/10でも驚かない。

   [2] 小山修三著「縄文時代中公新書

一方、魏志倭人伝に登場する国の戸数の合計は15万戸だ。一戸当たり4-5人とすると60万から75万人となる。

上記推計とまあ桁は合っているけれども、魏志倭人伝に登場する国という部分が日本全国という全体より多いのはおかしい。

古代中国では軍事の報告(捕虜の数など)は10倍さばを読むらしいから、魏志倭人伝の数字も10倍さばを読んでいるかもしれない。

という事で、この頃の数字には常に誤差がつきまとう。

しかし、両者共に10倍程度の誤差を想定して読めば、割と整合している事にむしろ納得できる。

 

話変わって、上記図では、縄文時代に26万人にまで膨らんだ人口が縄文末期に76000人に減った。これは気候が寒くなったせいらしい。それまで採れていたどんぐりなどの食料が寒冷化により採れなくなったせいだ。

それが、稲作が入って食料の生産力が増すとともに韓半島からの人の流入があって、人口もじわじわ増えて西暦200年には60万になり、725年には450万になった。

西暦800年頃から1300年頃は人口の停滞期だ。

その後再び増えだして関ケ原の戦いの頃(1600年)に1200万だ。

江戸期は大体3000万近辺で上下する。

明治維新後は急激に増加してピークで1億3000万近くまでいった。

現在は少子化により減少している。