紀元前1000年から西暦725年までの1700年間の人口増加は、明治維新後現在までの自然増による人口増加、あるいは関ケ原後江戸中期までの同じく自然増による人口増加に比べると、それほど急激なものではない。それは上図の傾きからもわかる。
しかし1700年という長期にわたっての継続的な人口増加は自然増だけではなく、大陸からの流入が多かったと思う。
紀元前1000年の時点では日本全体に(北海道は勘定に入れてない)75800人しかいない。
いわゆる弥生人は、こうした日本に鉄と稲作技術をもって流入していった。
当時の状況は、ちょうどアメリカ大陸にヨーロッパ人が流入する状況と似ている。
つまり、狩猟採集経済だから1平方kmに一人二人程度しか原住民がいない地域に、より高度な文明(農業や鉄器)を持った人々が流入していった。
従って、アメリカ大陸で起こったことから、弥生時代の日本で起こったことを類推できる部分もあると思う。
例えば、流入というのは、大人数が一気に新天地を征服するようなタイプではなく、小規模な、時には個人単位の移住が継続してじわじわ浸透していったものだろう。
ネイティブアメリカンと対立があったように、縄文人と弥生人の対立もあっただろう。
ただ違いもある。
例えば、ネイティブアメリカンとヨーロッパからの移住民との対立に比べて、縄文人と弥生人の対立はそれほど激しいものではなかったと想像する。
なぜなら縄文人と弥生人は人種的には同種であって交じり合ってしまえば区別がつかない。両者は割と自然と交流したと思う。
そういう点はネイティブアメリカンとヨーロッパからの移住民との関係と異なる。
実際、古事記を読むと天皇家は地方の部族の長の娘と婚姻関係を多く持つ。そこで生まれた子供は、天皇家を継ぐ日嗣の御子を除いて、また地方に戻って部族を引き継いでいるようだ。
古事記を読むとどうも天皇家はそうした婚姻関係を通じて天皇家の力を強めていったように見える。