わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

倭人:海の民-2

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倭人」とは中国人が勝手につけた名前であって、必ずしも日本列島に住む人々を指すものではない。

そこで、中国人がどのように「倭人」を記述しているか見てみる。こういう時にWikipediaの「倭・倭人関連の中国文献」は便利だから、そこに沿っていく。

1.論衡(王充著、後漢期)

周の時代に倭人暢草という草を献じたそうだ。おそらく中国内陸にはない珍しい草だろう。同時期に越裳は白雉を献じたとある。越は中国南方だから倭人も南方から来たのかもしれない。

2.山海経(?、前漢?)

倭は燕に属す、とある。その北に鉅燕がありさらに蓋国があるという。燕は東シナ海北部の渤海湾の北に位置するから倭もその近くにある事になる。こんなところにも倭が進出していた事になる。

3.漢書地理志(班固著、後漢

昨日述べた。東夷~九夷~倭人:海の民の図式だ。歳時に献見すとある。

地理志ではまず楽浪郡の記述がある。そこには倭の記述はなく、だいぶ後にある燕国の記述の中に倭人が登場する。そうした記述方に、倭が燕に属すとした山海経の影響が見られる。ところで献見先はどこだろう?朝廷か、燕国か、楽浪郡か、、、?

4.三国志陳寿著、西晋

魏志倭人伝そのものだ。ここには韓半島の狗邪韓国が倭の北岸とする。

5.後漢書東夷伝(范曄著、劉宋時代だから三国志より150年後)

3カ所に倭が登場する。

a) 西暦57年に倭奴国が朝廷に来た。金印を与えられた。ここで倭奴国倭国の極南界とする。なぜ倭奴国倭国の極南になるのだろう?范曄のイメージする倭国とはどの範囲を示すのだろうか?

b) 西暦107年に倭国王が生口160人を献じて、請見を願うとある。請見できたろうか?願うとあるだけだからできなかったか?

c) 鮮卑檀石槐が倭人国を襲って千余家を捕まえて魚を採らせた。実はこの記述は三国志からの引用であって、三国志では「倭人」の所が「汗人」に置換わっている。范曄は「汗人」を敢えて倭人」と解釈した。鮮卑が襲えるような海辺の地域というとおそらく渤海湾北岸だ。范曄のイメージでは渤海湾北岸地帯に住む「海の民」も倭人だった。

 

以上の記述から、中国人の持つ「倭人」とは上図に示すような、中国大陸沿岸部の島しょ部に住む海の民を総称する普通名詞のようなものだった、と想像する。海の民の活躍地域は、北は渤海湾北岸から南は海南島魏志倭人伝では儋耳硃崖)まで及んだ。

そうした、倭人のイメージは、魏志倭人伝が記述する魏の使節の北九州訪問によっていくらか修正された(韓半島の狗邪韓国が倭の北岸)けれども、さらに150年下った時代の范曄が未だ鮮卑が襲った渤海沿岸の海の民を「倭人」としたように、中々消えるものではなかった。

なお、以上はあくまでも中国人からみた「倭人」であって、中国大陸沿岸部の島しょ部に住む海の民は実際は様々な民族の集まりだったと思う。

我々がイメージする「倭」と当時の中国人がイメージする「倭人」とは大きく違っていた。