卑弥呼の頃に、韓半島ー対馬ー壱岐ー北九州ルートの交易があった。しかし交易のためには3つの海を渡らねばならない。どうやって渡ったか?
その質問の答えてくれる面白い記事をなんと国会図書館のレファレンス共同データベースにみつけた。
タイトルが上記のように
魏志倭人伝の時代に卑弥呼が魏の国へ使いを出したというが、当時の日本に海を渡る航海術、造船技術があったのかを知りたい。
という。
担当の方は以下の書物を参照している[1]。
[1] 『邪馬台国と卑弥呼の事典』(武光誠著 東京堂出版 2005)
以下の「」内は、この本からの引用をさらに引用したものだ。文中の青字は私が色変更した。
「「魏志倭人伝」を読むと、倭人がしきりに朝鮮海峡を往来していたことや、倭国内でも船を用いて移動していたことがわかる。まず3世紀の倭国の船について(略)弥生時代の遺跡から丸木舟がいくつか発見されている。しかし、二材以上の材木を組み合わせてつくる構造船を連想させる遺物は現在までのところ出土していない。古墳時代までの日本の船の大部分は1本の木で作った丸木舟であったと考えられている。当時の丸木舟は、おもにスギの巨木を用いたもので、切り出した材木を縦に半分に割って半円形にし、その中央部をくりぬいてつくるのが一般的であった。その大きさは、幅が八十センチメートル、長さが十メートルくらいのものである。」
「当時の丸木舟は船底が浅いので、ひっくり返りやすく、風や横波には弱かった。そこで朝鮮海峡横断などの長期の、しかも危険を伴う航海をする場合には、波の静かな時期を待って、一気に航行しなければならなかった。藁や草で編んだむしろのような帆はつくられていたが、順風の場合でも風が強いと帆を張るのはかえって危険なために、実際の航海で帆を用いる機会は少なかったと思われる。」
「古代人は基本的には陸岸の目標物を見ながら航海した。陸の見える範囲なら、暴風も避けやすいし、万が一速い海流に突っ込んでも、陸岸を見ながらだと還流から抜けやすい。九州と朝鮮半島の航路も陸地が見える範囲である。」
以上、卑弥呼の頃の船は丸木舟だったらしい。その点では縄文時代と大差ない。
当時は行先を目で見ながらの航海だった。従って夜になるともうアウトだ。漂流する。そうすると見渡す限り海しかなくて自分がどこにいるかわからなくなる。それはほとんど死を意味する。
アレキサンドリアの灯台のようなものがあればそれを目印に夜でも漕いで行けるが、それにしても漕ぎ続けなければならない。
そのように、海を昼間に一気に渡る。ある程度のスピードが要るから船は軽い必要がある。そうすると大きい船では重くてダメだ。丸木舟のように軽い船で、日中で、天気の変わらないうちに渡り切る。
韓半島から対馬海峡までは最短で51kmあるから、時速4km(歩く速度だ)で13時間だ。春夏の日の長い時なら可能だ。
では、現代において、当時の船と技術を使って対馬海峡を渡った例はあるだろうか?
丸木舟ではなさそうだ。
埴輪にある形状の船(おそらく卑弥呼の時代より100年以上後)を作ってトライした例が2件ある[2]。
[2] http://inoues.net/science/war.html
1.角川春樹さんの野生号はかなりいいところまで行ったが最後は曳航してもらったらしい。
2.なみはや号は、最初から船と言える代物ではなかった。最初と最後を除いて全行程を曳航してもらった。
という事で、対馬海峡を人力で渡った例をみつける事ができなかった。
しかし、丸木舟で隠岐から島根までわたった例があった。それが上記の「縄文の丸木舟、日本海を渡る」だ。次回はそれを考察する。