わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

赤壁の戦いから中国の船を想像する

 魏志倭人伝つまり卑弥呼の時代には、倭人は大海(対馬海峡、他)を渡る船として丸木舟しか持っていなかったらしい。

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 そうして、丸木舟でもって大海(隠岐ー島根)を渡り切った例がある。

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 では、卑弥呼の時代に中国ではどんな船を使っていたか?三国志から見る。

三国志には有名な赤壁の戦いがある。ここで、曹操の軍は、孫権劉備の連合軍に大敗を喫したため、曹操による中国統一は頓挫した。魏(曹操の子が初代皇帝)・呉(孫権が初代皇帝)・蜀(劉備が初代皇帝)の三国鼎立の時代に突入する。

赤壁の戦いは長江(揚子江)における船の戦いだった。

曹操の水軍は北から攻めてきたから長江の北岸に陣取った。以後北軍という。投降者の水軍を含めて北軍は膨張して大軍になった。

呉の水軍は、周瑜を総大将にして長江の南岸に陣取った。以後南軍という。

江の川幅は900mくらいだ。この距離だと矢は届かない。

周瑜の部下の黄蓋北軍の船がお互いに船首と船尾を繋げているのを見てある提案をした。

油など燃えるものをわんさか10艘の快速艇に積み込み、黄蓋曹操に投降すると見せかけて近付いた。曹操黄蓋を信用はしなかったが戦闘準備をするわけでもなく、その10艘の船の動きを観ていた。おそらく、「なんだ投降者はたった10艘か。」とがっかりしただろう。

長江の半ばで帆を揚げた。距離450m。冬12月には珍しい東南の風を背に受けて快速艇はますます速い。時速6kmくらいでているか。

そして、北軍船団から2里ばかり(おそらく150m位か)の所で快速艇に火を点けた。

火のついた10の快速艇は、東南の猛風にあおられてそのまま北軍船団に突っ込んだ。快速艇の速度が時速6kmとして1分に100mだから、火が出てからわずか1分半だ。北軍に戦闘準備をする時間的余裕はなかった。

東南の風により、火は互いに結び合っている北軍船に次々と飛び火して瞬く間に水軍のみならず陸の陣地まで焼き尽くした。

曹操は這う這うの体で退却した。

以上の記述から、中国の船についていくつか分かる。

1.帆があった。そしてその帆を揚げたり下げたりできた。帆を揚げる事ができるためには船にある程度の安定性が必要だ。例えば、丸木舟では左右の揺れに対して不安定だから帆は上げられない。左右の揺れに対して安定にするには、筏のように船底を幅広にするか、ヨットのように船底を水中に深くして重心を下げる。いずれにしても、丸木舟ではできず、複数の木材をはぎ合わせて水の漏れない構造を作る技術がいる。

2.船を係留するために互いに繋げていたというから、錨(いかり、碇、舫)のようなものはなかったかもしれない。少なくとも川では一般的ではなかった。

 

赤壁の戦いは西暦208年にあった。

卑弥呼の魏への使いは西暦238年だから赤壁の戦いのわずか30年後だ。

 

倭人は、中国、韓半島の沿岸沿いに日本にやってきたし、そうした地域と交易しているわけだから、当然に中国の船を見ている。丸木舟ではない船も知っている。ただ、船は構造が複雑になるに従って重くなる。重くなるとそれだけ遅くなる。

帆を自由自在に使えて、風力で進む船であれば重い船でも十分速度がでる。しかし当時帆を自由自在に使う技術はおそらくない。

速い舟でもって、大海を昼間目標地が見える間に一気に渡らねばならない。対馬海峡は直線距離で50kmある。それを昼間に一気に渡るには丸木舟が当時のベストの選択だったと想像する。