わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

三国志呉書呉主伝(孫権伝)から中国の船を想像する。

南船北馬という。

中国では南部は降水量が多くて河川や湖が多く主要な交通機関は船だ。北部は比較的乾燥して馬が主要な交通機関になる。

交通機関は戦いの時には兵器にもなる。三国志の時代には、魏では馬が主要兵器であり、呉では船が主要兵器だった。

西暦208年の長江(揚子江)の赤壁の戦いで、魏の礎を築いた曹操は慣れない船の戦いをして後の呉の皇帝孫権に惨敗して、中国統一が頓挫した。

そこで、呉の最新兵器である当時の船を三国志呉書呉主伝(孫権伝)から想像する。

当時の戦いのための船を楼船といった。船の上に2-3階建ての建物を載せたような構造になっている(中国の兵器参照)。高い所から矢を射ればそれだけ遠くが射程範囲になる。

呉主伝には次の場面がある。

孫権が偵察のため大きな船で曹操の軍に近づいた。曹操軍が矢を大量に射かけたため船が傾いた。そこで孫権は反対の面で矢を受けさせ、バランスを戻して悠然と帰った。

上の場面は孫権の合理的な豪胆さを示す。ここで大きな船とは楼船に違いない。

しかし、大量とは言え矢を受けた位で傾くような船はちょっと危ないのではないか。楼船は上にあまりに高い構造を乗せたため重心が高くなって安定性に欠けた、と想像する。

さらに以下の場面がある。

西暦226年、新規に作った大船を「長安」と名付けて長江に進水した。孫権も乗っている。折に風がでて波が高くなった(猛浪)から船長は転覆を恐れて緊急避難した。孫権が笑って船長に「臆病なやつだな。」と呼びかけると船長は「皇帝たるあなたを危険にさらすわけにはいかない。」と応えた。

風くらいで転覆の可能性があるのだ。これも楼船の不安定性を示している。

ともかく、楼船という構造をもった船が当時既にあった。

これらはいずれも長江で使う船だ。海で使う船については以下に記述がある。

西暦230年、孫権は衛溫と諸葛直を将として、夷州・亶州を求めさせた。

遣將軍衛溫諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲及亶洲(三国志呉書呉主伝)

 

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 夷州は台湾とされる。亶洲は始皇帝が遣わせた徐福の子孫が住むという地だがどこか分からない。

そして、 夷州から数千人を連れて帰った。

但得夷洲數千人還。

しかし、衛溫と諸葛直は命令を守らなかったとして誅殺された。

中国本土から台湾まで約200kmある。よく渡り切ったものだ。この船は楼船のような不安定なものではない、大洋を航海できるものだ。西暦226年の長安号からたった4年後にこうした航海ができたことに驚きを感じる。

おそらくは海での使用に耐える構造の船が既にあったと思う。それは長期間の航海が可能なくらい物資を積める大きな船であり、当然に帆もあって風力+人力で航行したものだろう。

仮に海での使用に耐える大きな船があったとする。幸いなことに台湾には高い山があり200km先からでも見えることもある。呉の国の台湾海峡沿岸に住む人々なら 夷州=台湾の山々(雪山、玉山など)を晴れた日に見る事ができた。そこに陸地がある事を確信できたから船で行くこともできた。船の速度が時速4kmとして50時間=2-3日で着いてしまう距離だ。

それに対して亶洲は雲をつかむような話だ。

孫権は命令に従わなかったとして無慈悲にも衛溫と諸葛直を殺してしまった。

とにかく、呉は外洋でも使える大型船をもった。

 それは魏に対して海での優位を意味した。

西暦232年、呉は馬を買い付けるために100艘の船で公孫淵の支配する遼東へ向かった。馬を乗せられるような大型の船を呉は持っていたことになる。呉にとって陸上の兵器としての馬は是非とも欲しかった。

しかし、この船団は山東半島の港成山で魏に襲われてしまう。成山は遼東半島へ向かう船が必ず泊まる港だ。物資の補給のために港に入った所をやられただろう。

それでも同年10月には呉は遼東の公孫淵に大勢の使節団を送る。公孫淵はしかし魏に寝返ってこの呉の使節団をほぼ皆殺しにしてしまう。

翌233年、使節団の生き残りが高句麗の馬80匹と生還した。この時は船が小さかったから馬は80匹しか乗らなかったとある。80匹の馬が乗るほどの船があったのだ。

西暦237年、たびたび呉の船に沿岸部を蹂躙されて魏も腹に据えかねた。この年青州兗州、幽州、冀州の4州に海で使う大船を作らせる。

詔青、兗、幽、冀四州大作海船。

この船は公孫淵を滅ぼす時に役立った。

西暦238年、公孫淵を攻撃する陸軍とは別に密かに海軍でもって楽浪郡帯方郡を制圧した。

又潛軍浮海收樂浪帶方之郡

公孫淵は背後の楽浪帯方を抑えられ孤立して滅んだ。

同年12月、卑弥呼朝貢した。

翌西暦239年3月遼東の魏守備隊を呉が襲撃した。呉の船はおそらく公孫淵を助けに来たが、既に公孫淵は滅んでいたから、腹いせに遼東を襲っただろう。魏は大船を作ったとはいえまだ海上では呉が優位にあった。

このように呉の船がうろついていては卑弥呼への使節は出発できない。

西暦240年、やっと卑弥呼への使節が倭に到着した。

 

以上、

呉では馬をも運べるような大きな船が既にあった。

それをキャッチアップするために魏でも海で使用できる大きな船を作った。

同時期に、対馬海峡を往来する倭人は丸木舟を使用していた。

丸木舟では馬は運べないから、日本列島に未だ馬はいない。

馬が日本にやってくるのは古墳時代だから卑弥呼の時代から150年程経っている。

150年かけて倭人はようやく呉の造船の技術を手に入れた事になる。