わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

魏志倭人伝に続く西戎伝について

魏志倭人伝と言い慣わすけれど、正確に言うと三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝(うがんせんぴとういでん)の中の倭人条という。魏・呉・蜀の三国志のなかの魏書の中の烏丸鮮卑東夷伝の中の最後に、倭人について記載されている小さな部分に過ぎない。

陳寿さんは中国の周りの東西南北の異民族のうち、上記の東夷列伝だけを三国志に記載した。

それでは片手落ちだと思ったか思わなかったか、誰かが、烏丸鮮卑東夷伝のあとに魚豢(ぎょかん)さん作の「魏略」の西戎伝(せいじゅうでん)を付加えた。

これがまた結構長くて面食らう。ちょうど和食を期待しているときに大盛りのカレーを出されたような気分だ。

でもまあ、カレーもあらかじめ心づもりしていれば悪くないから食べてみる。

 

まず、当時の中国の西の果ての敦煌から玉門関をでて西域にいる。

楼蘭とか亀茲とか高昌とかをへて大月氏国に至る。大月氏というのはクシャーナ王朝らしい。西暦229年に魏から「親魏大月氏王」の称号をもらっている(三国志魏書明帝紀)。

親魏倭王」の称号と比べてみると、倭が大月氏と替わっているだけだ。つまり倭が大月氏と同格だとみなされたという意見もあるが、いや大国も小国もみな「親魏・・王」の称号をもらったのだという意見もある。

この大月氏国は天竺(インド)も領有した。

「天竺」とは中国人には珍しく「天」という良い字を異民族に使っている。中国人もそれなりに異民族をリスペクトすることもあったか。

しかし、仏陀ブッダ)には「浮屠」という酷い字をあてている。「屠」は屠殺の意味を持っているではないか。しかも、老子が西域に出て天竺で仏陀を弟子にした、などという荒唐無稽な記載もある。

これはどうだろう?中華思想の一例だろうか?

 

後の時代の玄奘はインドに仏教を学びに行っているから、すべての中国人が(なんでも中国が一番という)中華思想に凝り固まっていたわけでもなさそうだ。

 

さらに西へ行って安息(パルティア)そして大秦国(ローマ帝国)も記載されている。

大秦国の人は中国人に似るが胡服(異民族の服)を着るといい、自ら中国から分かれたという。

これもどうだろう?ローマ人は中国人に似てはいないだろう。西域のアジア人がローマ帝国を騙って、中国にゴマすりしているのか?

 

ということで、いろいろ異論もあるが、当時の中国人の世界観を見るうえで、西戎伝はそれなりに面白い。