村上春樹さんは、早稲田大学を英語と国語ともう一つは世界史で受験したそうだ。
なぜ世界史を選んだかについて、世界史は縦と横だけおさえておけばよかったからという。
ここでいう縦とは時間的つながりであり、横とは空間的関係性(地理的つながり)だろう。
年表をみてそこから事件のつながりを読取るのが縦糸であり、世界史地図から近隣諸国の関係(大体は戦争だけど)を見るのが横糸だ。
という事で
縦⇒年表
横⇒歴史地図
という図式が成立つ。
個人的には年表よりも歴史地図を見る方が好きだった。空間として認識するのが好きだったせいだ。歴史地図を最初見た時、モンゴル帝国の大きさに感動した。
中学生の頃、同級生が歴史について猛勉強して私にチャレンジしてきた。互いに歴史問題を出し合ったが、私はコテンパンにやられた。意気揚々と歴史の試験を受けた彼はしかし私よりも点が悪かった。「なぜだ?」と彼は問いかけたが私も当時はわからなかった。
今ならわかる、歴史の理解は単に事象(起こった事)を暗記することではなく、そういった事象の時間的・空間的関連性を把握する事だと。
上記の縦糸と横糸がわかることだ。
歴史の本を読むと、当然ながら面白い本と面白くない本がある。当たり前だが面白い本は理解できる本が多く、面白くない本は理解できない事が多い。
若い頃は理解できないのは私自身のせいだと自分を責めることが多かったが、最近は、理解できないのはその本の著者のせいだ、著者が縦糸と横糸を理解していないせいだ、と考えてしまう。それだけ図々しくなった。
卑弥呼の時代は三国志の魏志倭人伝が唯一の文字資料だ。その資料だけでは歴史の縦糸と横糸を十分には再現できない。つまりわからん事が多い。例えば邪馬台国の位置さえも決める事ができない。
ここでわからん部分をしっかりわからんと認識する事も重要だ。わかるとわからんというと1か0かのデジタルのように感じるかもしれないが、実はかなりアナログであって、半分わかるとか、ちょっとだけわかるとか、ほとんどわかったがまだ疑問点があるとかいろいろなレベルがある。
そうした中で、わかっている部分と整合性を保ちながらわからん部分を想像して再現してみたい、と思う。