わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

「三国志」展からー金印・青銅印・紙

三国志」展に、金印・青銅印・紙が展示されているから、それらについて紹介したい。

金印といえば日本では「漢委奴国王」印だ。こうした印は原則的には、中国政府が地方に任官した役人に「仮授」したものだ。「仮授」だから、任を解かれたら返さねばならない。しかし、倭のように遠方の地だとたぶん「仮授」したきりになって返しもしなかっただろう。というわけで「漢委奴国王」印が日本に残った。

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No.71.「魏帰義氐侯」金印

上の写真左だ。2.25cmx2.25cm。三国時代。氐は魏の西にいた異民族だ。氐をてなづけるために侯にとりたてたに違いない。

No.70.「関内侯印」金印

写真右。2.5cmx2.5cm。後漢から三国時代。関内侯はかなり上位の役職らしい。「魏帰義氐侯」金印と比べると明らかに大きい。因みに「漢委奴国王」の印は2.35cmx2.35cmだから「関内侯印」より少し小さい。なおこの印を見るとかなり角部分がすり減っている。それだけ使用したものだろう。

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No.54.「偏将軍印章」金印

2.4cmx2.4cm。後漢(1世紀)。曹操がやむなく投降した関羽に授けた位が「偏将軍」だ。

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No.65.「曹休」印

青銅。2.5cmx2.5cm。三国時代曹休曹操の親族で軍人だ。大型の墓からこの印が出たことで曹休の墓とわかったらしい。この印は青銅製だ。写真がピンボケで申し訳ない。

 

以下は写真がない。

No.59.「孟トウ(「謄」の字で「言」の部分が「二」になったもの)」印

青銅。1.8cmx1.8cm。三国時代から西晋。私的に作った印らしい。遠慮して小さく作ったか。

No.24.「天帝使者」印

青銅。2.3cmx2.3cm。後漢。「天帝使者」とはなんだろう?どうも太平道とか五斗米道とかの当時の宗教団体が使った印らしい。こうした印をつかう団体が跋扈する社会とは、政府の権威が相当落ちているように感じる。後漢の末期だろう。

 

ところで、紙は後漢時代に発明された。こうした印はその前からあるから、印の用途は紙に押すものではない。

こうした印はどのような用途に使ったか。

竹簡や木簡に記した手紙を束ねて最後にそれに封をするために泥の塊を押付け、そこにこうした印を押す。印を押された泥の塊を「封泥」という。

親書を送る場合、この封泥が壊れていなければ、誰にも読まれていないことの一応の証明になる。

封泥の上では文字が浮き上がるように、印は必ず文字部分が凹んでいる。そこが現代の印とは逆だ。

こうした封泥は、手紙を見るときに壊れて捨てられるだろうが、案外、後世に残っていたりするらしい。上記「天帝使者」の封泥が残っているらしい。

日本にも封泥がいくつか残っているらしい。博物館の写真集かなにかで見たことがある。

 

最後に、三国時代の紙を紹介する。

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No.74.墨書紙

径17.4cm。後漢。墓から出土した。銅鏡を漆の鏡箱にしまう時に鏡が傷つかないように上下に緩衝材として挟み込んだ。文面からもとは手紙らしい。手紙を丸く切り取って2次使用したらしい。ということで後漢の末期(西暦185年以前)には、上流階級では紙を使って手紙のやり取りをしていたらしい。一枚の紙というのは風化してなかなか後世に残らないものではないだろうか?それがたまたま鏡の緩衝材として残った。

 

ということで「三国志」展から紹介した。同展覧会は9月16日まで東京国立博物館でやって10月から九州国立博物館で行う。