わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

2018-11-01から1ヶ月間の記事一覧

鮮卑の檀石槐が倭人を襲った?

昨日書いたように、後漢書東夷鳥桓鮮卑伝に、 鮮卑の檀石槐が食糧難解決のために東にいた倭人を襲って1000家族を奪い魚を採らせた、 という記事がある。 へえ、鮮卑と倭人に接触があったんだ、と感心する。 一方、ほんとかな、と眉に唾つけたくなる。 実は、…

卑弥呼はなぜ生口を魏の皇帝に送ったのか?-2

aki104.hatenablog.com 私の個人的印象だが「生口」という言い方が人を単なる物とみなしているようで好きではない。とは言うそばで「人口」と普通に使うから、言葉に対する慣れはある意味恐ろしい。 まず、「生口」は人間だろうか? 後漢書巻86南蛮西南夷列…

卑弥呼はなぜ奴隷(生口)を魏の皇帝に送ったのか?

魏志倭人伝では卑弥呼からの贈り物の中に「男生口四人女生口六人」をある。生口10人を贈っている。 生口は奴隷と考えられている。 ここがどうにも腑に落ちない。 奴隷など贈られて喜ぶものだろうか? 当時は戦いの戦利品として奴隷はいくらでもいたはずだ。…

倭の人口は多かったのか?

倭の人口は周辺地域と比べて多かったのだろうか? 中国の史書から数字を取り出してみる。戸数表示でまず見る。 魏志倭人伝では倭の国々の合計戸数が、15万戸だ。 同じ三国志で、馬韓(後の百済の地域)の戸数は十数万戸とあって倭と同等だ。 弁韓辰韓(任那…

「戸」と「家」の違いはあるのか?

aki104.hatenablog.com 前回の「倭の人口はどのくらいか?」の記事で、戸数と家数と2種類の単位がある事を表に記載しておいた。 つまり対馬国は1000「戸」なのに一大国(壱岐国?)は3000「家」だ。 あと不弥国が1000「家」とある。他は皆「戸」の単位を使…

倭の人口はどのくらいか?

中国の史書は、課税の基本となるせいか戸数を随分気にしている。魏志倭人伝でも倭の国の戸数の表示があるから抜き出す。 地域 戸(家)数 倭 對馬国 1000 戸 一大国 3000 家 末盧国 4000 戸 伊都国 1000 戸 奴国 20000 戸 不彌国 1000 家 投馬国 50000 戸 邪…

なぜ三分の一以下になったか?

aki104.hatenablog.com 三国時代前後100年間に中国の人口が三分の一以下になった理由をいくつか想像したい。 1.戦乱や政治の失敗により減った。 第二次大戦でロシア(当時のソ連)で1000万人以上が亡くなっているという。当時のソ連の人口は1億人以上だろ…

三国時代に中国の人口は三分の一以下になった

晋書は晋の時代から400年近く後の唐の時代に成立した。400年というと現代において関ケ原の頃を記述するに等しい。 そんな古い時代の記述だけど一応信用するとしてその地理志に記載の人口を見る。 因みに三国志に地理志はない。三国志の著者の陳寿さん、面白…

三国志(陳寿著)と後漢書(范曄著)の関係

中国の歴史書といえば、時代の順に、まず「春秋」があり、前漢初頭までの「史記」があり、そして前漢をカバーする「漢書」がある。 順番からいえば次は「後漢書」だけれども、陳寿さんは「後漢書」をすっ飛ばして、いきなり「三国志」を書いてしまった。 想…

三国志の著者陳寿はラッキーだった

中国の年代と史書の著作年の関係を見やすくするために上記表を作った。 魏志倭人伝は三国志の中の、魏書の中の、烏丸鮮卑東夷列伝の中の、倭人条だ。 三国志は陳寿の西暦280年頃の著作とされている。 陳寿は三国志により後世に名前を残した。 ところで魏蜀呉…

魏からの返礼の使節が遅れたわけ

卑弥呼の使者は西暦238年6月に魏に着いた。しかしその返礼の魏の使節は遅れて西暦240年となる。 なぜ遅れたか? 実は、魏に敵対する南の呉の水軍が西暦239年3月に遼東半島を攻撃して住民を捕虜にしている[1]。 [1] 三国志呉書呉主伝 (三月..之遼東擊魏守…

卑弥呼もって死す(卑彌呼以死)

魏志倭人伝に 卑弥呼もって死す(卑彌呼以死) とある。ここでなぜ単に「卑弥呼死す」と言わずに「もって(以)」を加えたか? そういう疑問が出る理由は、 卑弥呼が狗奴国の男王卑彌弓呼と素より不和だった; 遣塞曹掾史(中国の役職)の張政が詔書(皇帝の…

倭と呉は直接交易できたか

三国志の時代に、倭は(魏を差置いてその南の)呉と直接交易できたか? なぜそのような疑問をもつかというと; 1.古事記に「呉」は出てくるが「魏」は出てこない。 2.そもそも弥生時代の米は中国南部(つまり呉の地域)から来ている。これも交易の結果だ…

呉の孫権は夷州(台湾)を探させた

呉の孫権は衛溫と諸葛直に夷州・亶州を探させた(西暦230年)。両将軍は夷州から数千人を捕まえてきた[1]。 ここで夷州は台湾とされる。亶州はよくわからない。 台湾は中国本土から見えるだろうか? 昨日の記事で富士山が262km先の八丈島の高台から見えた事…

八丈島から富士山が見えるー距離262km

まず、海上から富士山が見える範囲を考えてみる。 上式で、R=6400km、H=3776m(富士山の高さ)、h=1.6m(人の身長)をm単位をkm単位にそろえてから代入すると距離は224kmになる。 これは伊豆諸島方面では御蔵島より遠く、八丈島より近い。 ここでネットで探…

紀年銘鏡はたったの14枚

総計で4000枚ある[1] という古代銅鏡のうち年号の記載のある紀年明鏡は日本ではたった14枚しか出土していない。そのリストが上図だ[2]。 [1] Wikipedia 「三角縁神獣鏡」 [2] Wikipedia 「銅鏡」より抜粋 例えば、上図の和泉黄金塚古墳出土の紀年銘鏡には 景…

卑弥呼の銅鏡-2

上図はPublicDomain 画像を編集。東京国立博物館 in Wikipedia 「銅鏡」 上図に「景初三年」という文字が見える。 見えないという人は左半分真ん中より少し上に四角で囲われた「三」の字を見つけて欲しい。その字の左斜め下、図左下隅に四角で囲われた「年」…

卑弥呼の銅鏡‐1

(上図)Public Domain 画像を編集、東京国立博物館 in Wikipedia「銅鏡」 上記図は蟹沢古墳出土の三角縁同向式神獣鏡の一部だ。 上図の時計の1時の位置から3時の位置までに 「始元年陳是」 とある。欠けた12時の位置には「正」の字があったと類推して、…

卑弥呼の贈り物

西暦238年の卑弥呼の贈り物は生口10人と布2枚という寂しいものだった。 余程急いでいて贈り物を集める余裕がなかったに違いない。帯方太守に新任したばかりの劉夏も急がせただろう。むしろ魏の中央をよく知っている劉夏が主導したかもしれない。 内容よりも…

卑弥呼の使者は景初2年(西暦238年)に朝貢した

景初2年(西暦238年)1月、司馬懿と毌丘儉(かんきゅうけん)が遼東へ出発した(魏本隊)。同時に別動隊を船で密かに(魏潜軍)楽浪・帯方へ向かわせた[1]。 [1] 又潛軍浮海收樂浪帶方之郡 密かにというのはもちろん公孫淵に知られないようにとの意味だが…

卑弥呼の使者は景初2年か3年か

魏志倭人伝では卑弥呼の使者は景初2年(西暦238年)の6月に来ている。 一方、梁書では景初3年(西暦239年)とする。いわゆる学会の通説も景初3年とする。 なぜ景初3年が多いかと言うと、その時には独立勢力として楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が…

倭から洛陽へ

魏志倭人伝によると西暦238年に卑弥呼の使者が帯方郡を経由して洛陽に到着した。 その行程はすべて船だろうか? わからないが、海路の方が早いし距離が短い(直線距離)から、船を主に使っただろう。 まず北九州から壱岐へ渡海し、次に対馬へ渡海し、さらに…

「干支」と西暦年対応表

「干支」は中国流通し年号だ。しかしわかりづらい。そこで一覧表を示す。 今年2018年は戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)であって来年2019年は己亥(つちのとい、きがい)だ。 古い所では高句麗好太王碑に出てくる辛卯(かのとう、しんぼう)年は西暦391年にな…

韓半島が見えるか?

古事記・日本書紀で「海を渡って新羅を征服せよ」との神のお告げに対し、仲哀天皇は「海の向こうにそんな国は見えないではないか」と反対した。神に逆らった仲哀天皇はあえなくお亡くなりになった。 羅針盤もまともな時計もない古代の航海において、目的地が…

韓半島から倭へ;3ステップの渡海

図のように魏の使節は3つの海を渡って、韓半島から倭の本拠地へ来た。魏志倭人伝ではそれぞれを「渡海千里」と表現する。 実際にGoogleマップで最短距離を測るとそれぞれ、51km、49km、21kmとなる。港から港ではプラス数キロ増えるだろう。 以前に言ったよ…

三国史記に卑弥呼登場

朝鮮の新羅・高句麗・百済の三国時代の歴史を記した「三国史記」の新羅本記に卑弥呼が登場する。 173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)[1] [1] Wikipedia 「倭・倭人関係の朝鮮文献」 から引用した。 …

崇神天皇:ミマキイリヒコイニエの命

崇神天皇という漢語的言い方は後世の創作であって、 古事記・日本書紀では「ミマキイリヒコイニエの命」という。 音に出して読んでみると、ミマキ-イリヒコ-イニエ と分かれそうだ。 今回「イリヒコ」に着目する。 「ヒコ」は「彦」だろう。そうすると「イリ…

倭の五王

卑弥呼の時代から150年程経つと倭の五王が中国の史書に登場する。 允恭天皇の崩御年を加えることにより倭の五王との関連性が見やすくなったから、ここで、古事記の崩御年と中国史書に登場する倭の五王の年代を並べてみよう。 対応する天皇は、応神→仁徳→履中…

天皇の崩御年-3

古事記には15の天皇の崩御年が干支年で記載されている。 なぜこの15天皇のみか? 崩御年の記載は初めから古事記にあったのか? 後に付加えたものではないか? 等々の疑問が残る。 一方、日本書紀にはすべての天皇の即位年の記載があるけれども、初期の天…