わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

紀年銘鏡はたったの14枚

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総計で4000枚ある[1] という古代銅鏡のうち年号の記載のある紀年明鏡は日本ではたった14枚しか出土していない。そのリストが上図だ[2]。

  [1] Wikipedia三角縁神獣鏡

  [2] Wikipedia 「銅鏡」より抜粋

例えば、上図の和泉黄金塚古墳出土の紀年銘鏡には

景初三年陳是作鏡銘之保子宜孫

とある。これから景初三年は鏡の製作年を示すことがわかる。他の鏡でも製作年を示す。

 その製作年をじっくり見て欲しい。

卑弥呼朝貢は西暦238年だ。

14枚のうち12枚に、卑弥呼の魏への朝貢の前後の年号の記載がある。古代の銅鏡は前漢の時代から数えると700年にわたって作られている。ところが紀年銘鏡はたった10年に集中する。

これはどういうことだろうか?

このような極端な集中は何らかの原因と理由があるはずだ。その原因は卑弥呼の魏への朝貢に間違いないだろう。

もっというなら卑弥呼への贈り物銅鏡100枚が原因だと思う。

ただ、だからと言って、上記紀年銘鏡が銅鏡100枚そのものとも言い切れない。

上図だけを見ても実に悩ましい問題がいくつかある。

1.魏の敵対国である呉の年号の鏡がある。

2.景初4年という存在しない年号がある。しかも2枚もだ。

3.異なる形式の鏡がまざっている。

などだ。それから、

4.上図の紀年銘鏡は皆中国製だろうか?

との疑問がある。

以下に今時点の私の想像で応える。

1.魏の敵対国である呉の年号の鏡がある。

三国志には呉の皇帝孫権が、呉の玉と交換に魏から馬を手に入れたとの記載がある[3]。(南方の呉は執拗に兵器としての馬を手に入れようとしていた[3]。一方北方騎馬民族とのかかわりにより魏には馬はいくらでもいた。)そのように呉と魏の間で交易はあった。当時魏の鏡は貧弱なものだが、呉の鏡は大きくて見栄えが良かった[4]。そこで、魏は呉に鏡を注文した。おそらく100枚皆注文した。そしておそらく馬と交換した。注文の時脅しのように「倭に送るぞ~」と言ったかもしれない。呉としては馬が手にいるなら実用性のない鏡くらいいくらでも作っただろう。

   [3] 三国志呉書呉主伝

   [4] 王仲殊著「三角縁神獣鏡」(1992) 86-87ページ参照

2.景初4年という存在しない年号がある。しかも2枚もだ。

景初3年に魏では暦の変更があり(正月の時期がずれて)景初3年12月の後に景初3年閏12月があった。この閏12月を景初4年閏12月と間違えた。特に作ったのが呉の職人なら他国の年号を間違える事はあるだろう。また間違えて作ったものを平気で差出すこともやれただろう。

3.異なる形式の鏡がまざっている。

鏡の形式などは現在の学者が多数の鏡を分類するために作ったものだからあまり意味ないものだと感じる。職人の好みとその時に使える基本の鋳型によって三角縁にしたり平縁にしたりするだろう。そういう意味で三角縁神獣鏡だけを特別視する事は私には理解できない。

4.上図の紀年銘鏡は皆中国製だろうか?

昔、原価3万円の10万円金貨を偽造して儲けようとした人間がいた。金貨などは本物を鋳型として、その逆を作り、さらに逆を作って偽造する事ができる。古代鏡も同様だ。従って紀年銘鏡のなかに複製したものがあっても不思議ではない。当時は著作権もないから、魏の銅鏡100枚はせっせと複製したと想像できる。その時使う銅材料は、まだ国内で銅が発見されてないから輸入品だろう。銅のなかの鉛のアイソトープの成分比では輸入元の中国製あるいは朝鮮製と判断される。

 

話変わるが、例の「漢委奴国王」の金印も古代の複製品かもしれない。金貨を偽造するように金印を複製することは当時の技術で十分可能だと思う。だから同じ金印がもう2-3個出てきても不思議ではない。金の成分分析により材料が日本製だとされても驚かない。たとえ複製であっても金印の価値は変わらない。なぜなら複製するには原型が要る。その原型があったという事実が、奴の国王が金印を綬けられたという歴史事実の証明になる。

むしろ未だ見つからない卑弥呼の「親魏倭王」の金印が古代に複数個に複製されて見つけやすくなっている事を想像したい。