鮮卑の檀石槐が食糧難解決のために東にいた倭人を襲って1000家族を奪い魚を採らせた、
という記事がある。
一方、ほんとかな、と眉に唾つけたくなる。
実は、上記後漢書の記事は150年くらい前に書かれた三国志烏丸鮮卑東夷伝にタネがある。そこには、
鮮卑の檀石槐が食糧難解決のために東にいた汗人を襲って1000家族を奪い魚を採らせた、今でも数百家が残っている、
とある。
アンダーラインに引いたように三国志では「倭人」ではなく「汗人」になっている。
さて、上記三国志の記事を読んで、後漢書を編集中の范曄さんは解釈に困ったと想像する。
檀石槐は後漢末期に活躍した北方遊牧騎馬民族の英雄だからその事績を後漢書に記載しなければならない。
しかし陳寿さんの三国志にある「汗人」というのが何者か全くわからない。
「汗人」のまま記載してお茶を濁すのは史家としてのプライドが許さない。
等々。
そして、当時漁業に長じた人々というと「倭人」しか知られていない、「汗人」は「倭人」に違いない、との結論に至ったと想像する。
以下は私の考察:
「倭人」という言葉は中国人が勝手に付けた名前に過ぎない。
もともと中国人がイメージした「倭人」とは、海に浮かぶ島や沿岸部に住む漁業に長じた人々という普通名詞的なものだったと考えたい。
そうしたイメージが范曄さんの頭の中にもあった。それで魚を採る人⇒倭人と連想した。
それが時代が下るとともに、少しずつ日本列島に住む人々に集約していった。
しかし、もともとの「倭人」のイメージは後世まで残り、1000年後の明の頃でも「倭寇」という言葉に残る。