わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

高句麗好太王碑-3 -高句麗・百済・新羅 and 倭

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西暦400年前後、つまり好太王の頃、高句麗の本拠は集安にあった。好太王碑と好太王の墓とされる大王陵もそこにある。高句麗の名は、漢書地理志にあるから紀元前から中国に知られている。

それに対して、百済はソウルあたりに根拠地があったらしい。三国志魏書東夷伝の頃は馬韓といった。

新羅は、慶州が本拠地とされる。同じく三国志魏書東夷伝では辰韓といった。

倭は、どこにいたか?

そんなの九州や本州やその周辺の島々にいたのが当たり前とも言えるが、三国志魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)では洛東江河口の狗邪韓國が倭の北岸という。地域としては弁韓だ。

倭人朝鮮半島弁韓に住み着いていたかもしれない。

 

ところで三国志魏書東夷伝に各地域の戸数(家の数)があり面白いから挙げておく。

高句麗;           3万戸

馬韓(後の百済);    10数万戸

弁韓辰韓(後の新羅);  4ー5万戸

倭諸国合計;        16万戸

これで見ると馬韓(後の百済)の戸数が図抜けて多いことがわかる。特に高句麗と比べると非常に多い。倭の16万戸は相当水増しがありそうだが。

この戸数の比をそのまま160年後の好太王の時代に当てはめることはできないが、まあ大雑把にはそのように推測しよう。

高句麗が人口が少ないにもかかわらず、百済との戦いにおいて大体優位だったのは馬を使えたからだと思う。

ちょうど中国と北方遊牧民族との関係に似ている。人口で圧倒している中国が北方遊牧民族との局地戦ではどうも分が悪いのは騎馬対歩兵の戦いだったからだ。

 

 前ブログで好太王碑に記載された戦歴をまとめた。

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160年経った西暦400年の頃、好太王碑に記載の倭は実に神出鬼没、百済に居たり、新羅に居たり、帯方郡に進出したりする。

好太王はそんな倭をもぐら叩きのごとく叩きまくっているように見える。

これはひとえに倭が海の民であることを物語る。

海は自由自在に通れる道だ。海の道を伝って倭は各所に進出した。好太王はそうした倭に対応するために陸の道を主に使って騎馬でもって倭を討つ。

倭は、分が悪くなれば船でさっさと引揚げた。

そんな戦いと見える。

 

しかし、好太王にとっては倭を討つことが目的ではない。

本当の目的は領土を拡げ人を獲得することだ。

好太王碑ではしきりに城を獲得したことを喧伝する。

人口の少ない高句麗にとっては、人口の多い百済の住民を攻め取り少しでも自国の住民と領土を増やす事が重要だった。

その感覚はモンゴルなどの遊牧騎馬民族と同様だ。遊牧騎馬民族は投降するものはほとんどそのまま受け入れた。そうしてモンゴルは短期間に領土を拡大し人を増やすことができた。

好太王にもそういう発想があっただろう。

 

対するに、海の民である倭には領土的野心はほとんどなかったと思う。

王健群さんは、このような倭を「海賊」と断定する。後の倭寇と同一視するものだろう。確かに倭という統一国家があってそこが命令を発するといった様子には見えない。

おそらく小国家がそれぞれ勝手に朝鮮沿岸を侵略したものだろう。

三国史記新羅本紀には、倭が春または夏に新羅を侵略する記述が実に多い。

例えば

西暦14年には、「倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。」(三国史記新羅本紀)

という具合だ。

以下、倭人新羅を侵略した年を西暦で挙げる;

14、73、121、208,232、233、249、287、292、294、346、364、393、405、407、431、440、444、459、462、463、476、477、482、486、500。

倭は冬の間は北風が強くて対馬海峡を渡れないが、春になって南風が吹き始めたら海峡を渡って、よく言えば、新羅と交易したのだろう。しかし、交易が不調だと、略奪に走ったことも頻繁にあっただろう。

神功皇后新羅征討にしても、そもそもの目的は

「西の方に国あり。金銀を始めとして目の輝く種々の珍しき宝さわに(多く)あり。我今その国をよせたまわむ(帰服させよう)。」(岩波文庫古事記仲哀天皇条)

というように金銀その他の宝が目的だった。

そこには、領土を拡げようという発想はなかった。

 

以上、高句麗好太王の倭との戦いは、騎馬民族と海の民の戦いだった。

次回から、好太王碑にある戦いを詳細にみる。