わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

高句麗好太王碑-1 -なぜ好太王碑か?

高句麗好太王碑についての本をいくつか読んだから、ここに紹介したい。

なぜ高句麗好太王碑かというと、卑弥呼の時代の次に倭が登場するからだ。

以下年号だけを拾ってみる。

西暦238年に卑弥呼が魏に朝貢して以来何度か魏と往来があったが、

西暦266年に人が西晋(魏より禅譲を受けた)に「来献放物」したのが最後だ。

 

次は125年後に、好太王碑に倭が登場する。

西暦391年以来が渡海して百済新羅を臣民とした。

西暦396年それに怒った高句麗好太王百済を攻めて58城を獲得した。

西暦399年百済と通じた。新羅にも人が満つ。

西暦400年そこで新羅に援軍を送ってを潰滅させた。

西暦404年が帯方界に侵入したが、寇を潰敗させた。

西暦412年好太王死。

西暦414年に子の長寿王が好太王碑を建立した。

このように、好太王碑は414年に建立され、391年からの歴史事実を記述する。つまり、好太王碑は同時代の歴史資料・一次資料だ。

 

読んだ本は以下だ。

[1]王健群、「好太王碑の研究」1984

[2]王健群・賈士金・方起東、「好太王碑と高句麗遺跡」1988

[3]徐建新、「好太王碑拓本の研究」2006

[4]古瀬奈津子編、「広開土王碑拓本の新研究」2013

好太王碑は、中国と北朝鮮の国境の鴨緑江の中国側の集安市という、現代ではあまり人が行きたがらない辺鄙なところにある。

好太王碑の文字は必ずしもすべてが鮮明に見えるわけではなく、その拓本もまた多く存在して(作った拓本を売って金儲けした人もいたらしい。)、多くの人がさまざまに解釈してきた。

王健群さんは、実際に何が書いてあるか調べるために、何度もその実地に行って好太王碑の実物をみて、解読した[1][2]。

従って釈文として王健群さんのものを私はもとにする。その釈文は[2]にある。 

その後、徐建新さんが新しい資料を得て[3]を書いた。しかし私から見ると[2]よりも無難にまとめてあるように見えて面白みがない。

[4]はお茶の水大で新たに拓本が発見されたのを契機にして、最近までの研究をまとめたものだ。日本での第一人者の武田幸男さんも寄稿している。先の徐建新さんも寄稿している。[4]を見て、最近の動向がわかる。

なお、上記リストを見てもわかるように、高句麗好太王碑に関しては中国人学者の研究を私は尊重したい。

なぜなら、好太王碑文は純正の中国語らしいからだ。どうも高句麗という国は中国と(戦争も含めて)付き合いが長くて、少なくとも上層部は中国語が堪能だったようだ。

中国語なら中国人が最も良く解釈できるだろう。

 

ということで、次回から高句麗好太王碑文を考えていく。

 

 蛇足ながら、

上記本[1][2][3][4]はいずれも千葉市図書館または千葉市図書館経由で千葉県内の図書館から取寄せてもらった。

また、千葉県立図書館のサイトの「千葉県横断検索」を使うと千葉県内すべての公立図書館の在庫本を検索できる。これでほとんどすべての日本語の本はみつかる。

埼玉県でも「埼玉県横断検索」があったから各県がこうした検索機能を提供しているだろう。

それでも見つからないものは国会図書館にあたることとなる。