わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

高句麗好太王碑-7 新羅救援・倭と激突(西暦400年)

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さて、高句麗好太王は西暦400年にようやく倭と戦うこととなる。

その前年に百済が誓いに反して、倭と通じた。

好太王は立腹したに違いない。しかし平壌まで巡回したに過ぎない。戦闘の準備ができていなかった。

そこへ新羅の使いが来た。「倭人新羅の地に満ちている。城池を破壊し民を屈服させている。」として王に助けを請うた。王はその忠誠をたたえ、恩慈を施し、密計を与えて使いを返した。

ここの書きっぷりでは、新羅高句麗に対して(少なくとも表面的には)従順だった。百済が反抗的だったから、好太王は余計に新羅を「愛いやつ」と思っただろう。

密計を授けて帰らせた。

 

その密計が翌西暦400年の大軍事行動だ。

ただし、この部分は好太王碑の第2面と第3面の角部にあたり碑の上部が欠けて脱字が多いから正確な文章が明らかでない。

できるだけ明らかなところだけで記載する。

 

400年に、歩兵と騎馬の高句麗軍5万を新羅城に秘密裏に向かわせた。好太王は行かない。百済の動きを警戒したのだろう。

ところで、高句麗の集安から新羅の慶州まで直線距離で670キロくらいある。

日本で言えば福岡から浜松くらいだ。

陸の道を用いれば1000キロ近いだろう。歩兵が一日10キロで進んだとして100日かかる。

どのようなルートを通っただろうか。

時代は下って、豊臣秀吉朝鮮侵略において、加藤清正軍は釜山から朝鮮半島の背骨を通ってソウルにいたり、そこから平壌に侵攻した。

おそらくその逆を行った。ただし、ソウル近辺には百済がいるから、百済に動きを知られないようにソウルは迂回したに違いない。

 

高句麗軍が来て倭(ここでは「倭賊」と記述した。)が退いた。その倭を追って「任那加羅」に至った。

初めて、高句麗が倭と激突した。

ここで「任那加羅」が出てくる。任那加羅朝鮮半島最南端にある。そこまで高句麗軍が進出したことになる。

ここでの倭は陸路で退いたことになるだろうか、よくわからない。

王健群さんの釈文では「自倭背急追至任那加羅」とあって、倭の背中を急追して任那加羅に至った、と読めそうだから、陸路かもしれない。

倭は海の戦いに強みがある。高句麗は陸の戦いに強い。高句麗が、倭の海への退路を断つなどの策略を用いて陸の戦いに持ち込んだのかもしれない。

城を抜いて、羅人(新羅人)の駐屯兵に守らせた(「安羅人戌兵」)。

羅人は新羅人の事だ。守らせたは「安」の字を使う。

以下、碑文には城を抜く度に「安羅人戌兵」が出てくる。計3回出る。

「安羅人戌兵」を安羅という国の人が高句麗に逆襲したと解釈する説もあるけれど、それでは3回も安羅人が出てきて大活躍することになる。好太王碑の記載としてはふさわしくないと思う。

王健群さんの解釈が自然だ。

ともかく、新羅救援の軍事行動では、高句麗軍は倭に「占領」された城を取り返しては新羅人に守らせた。

高句麗軍は自分のものとしなかった。

ここはできなかったと解釈する方が自然だ。

抜いた城を自分のものとするなら、治安のためにそれらの城に軍を残さねばならない。高句麗軍が5万といえども、それぞれの城に軍の一部を残すと高句麗軍の力が弱まる。

また、好太王碑では高句麗軍が100%主導して軍事行動を起こしたように記述するけれど、実際は新羅軍との共同作戦だった。先の5万というのも、新羅軍を臣下として加えた結果の5万だったかもしれない。

城を抜いたあとは、新羅軍がその城を守る。

新羅の王を「寐錦」と記載する。これも蔑称らしい。

「寐錦」がこれを機に朝貢した、という記述で終わる。

 

ところで、高句麗は倭を追い出しては新羅に与えている。

随分気のいい話と見える。

ここは、高句麗百済新羅、倭の4国関係でみるとわかりやすい。

おそらく、高句麗新羅を見下してはいたが同盟相手とみなしていた。

そうして、高句麗百済を攻める時は新羅にも百済を攻めさせただろう。

新羅にとっては、当時はまだ上記4国のうちの最弱だった。そこで悔しい事ではあるが、高句麗と結んで生き残ろうとした。

日本で言えば、織田信長徳川家康の関係に近かった。

浅井・朝倉との姉川の戦いでは徳川が織田に加勢した。

後に武田氏が徳川領の長篠に攻め込んだ時には、織田が加勢して撃退した。

このように、多国間で戦いがある時代には、どこかと同盟する必要があった。

そうして同盟を維持するためには、同盟相手に何かを与えなければならない。

 

日本書紀継体天皇のとき大友金村が任那4県を百済に割譲したとある。

これもまた、同盟関係を維持するためにやったことだろう。

なお、任那4県割譲の記事は古事記には記載がない。

 

以上が西暦400年の高句麗と倭の戦いだ。

 

古事記では、西暦400年は仁徳天皇の治世の時代だ。

高句麗との戦いの記載は全くない。

古事記には、そもそも外交関係の記事はほとんど見当たらない。

これはどういうことだろうか?

今のところ?(question mark) のままにする。

 

朝鮮の三国史記新羅本紀には、

393年倭人が来て金城を5日包囲した。

402年倭国に王の子を人質として差出した。

405年倭兵が明活城を攻める。

407年春に倭人が東辺を攻め、夏に南辺を攻める。

408年新羅王が倭の本拠の対馬を攻めようとしたが家臣に諫められて止めた。

といった記事がある。

こうした記事をみると、倭は新羅をかなり侵略していたようだ。

新羅は、基本的には高句麗と同盟して倭に対抗しようとしたが、場合によっては存続のために倭に屈することもあった。

 

こうした侵略を行ってきた倭とは誰だろうか?

どうもやまと朝廷自体ではないように見える。

九州一帯の島々に住む豪族だったかもしれない。