ようやく、好太王の戦歴をたどる。初戦は碑麗だ。
好太王碑には
永樂五年歳在乙未王以碑麗不婦□人躬卒往討
とある。好太王の5年つまり乙未(西暦395年)の年に碑麗が(高句麗)人を返さないから王自ら討った。
好太王は18歳で即位したから、即位後5年で22歳だ。王としての初めての戦いだったろうか。
碑麗がどこにいたか今となっては推測でしかわからない。襄平道(襄平に通じる道)を通って帰ったとあるから、集安から北西に進撃したと考える。
戦果は、「三部洛六七営」を破ったとある。獲得した牛馬羊は数えきれない程という。
ここで「破った」というのは単に破壊したのではなく、戦いに勝って獲得したとの意味のようだ。後の戦歴で城を破る、との表現が出てくる。
今回は城は獲っていない。それほどの戦果でもなさそうだ。
帰りは「遊観」しながら意気揚々と集安に戻っている。
初めての戦いとしては上々のものだったろう。
最初の戦いは、好太王の腕試しみたいなものだったかもしれない。
ところで、この頃の倭はどうなっていたか。
それに対して日本書紀に記載の年号は允恭天皇より前は当てにならない、と思う。
古事記によると応神天皇が西暦394年に崩御されている。上記好太王の碑麗討伐の前年だ。
次は仁徳天皇が即位された。実際にはすんなりと即位ではなく、古事記によると母違いの弟の宇遅能和気郎子(宇治のわきのいらつこ)と天皇位を譲り合っていたらしい。譲り合っていたと古事記にはあるが、天皇位をめぐる争いがあったのだろう。
つまり、高句麗の好太王が戦っているころは、日本では仁徳天皇の治世だった。
しかし、好太王碑には、「倭」「倭寇」「倭賊」という語しかなく、「倭国王」とか「倭王」とか、ましてや倭国の王の名前などは出てこない。
新羅の王は「寐錦」であり、百済の王は「残主」と蔑称されているが一応好太王碑に登場する。
好太王碑の倭には顔が見えない。
一方日本側の古事記には高句麗と戦ったなどという記述はまったくない。
一体、好太王の戦った倭とは何者だろうか。
わからないままに、好太王の戦歴を次回から順繰りに見ていく。