わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

古事記の天皇の崩御年は、倭の五王の記載と整合する

古事記には所々に註として天皇崩御年を干支で入れている。

最初に崩御年の記載があるのは、第10代崇神天皇であって、

 

天皇(すめらみこと)の御歳(みとし)、一百六十八歳(ももあまりむそぢまりやとせ)。戊寅の年の十二月に崩(かむあが)りましき。御陵(みはか)は山邉の道の勾の岡の上にあり。』(岩波文庫古事記」倉野憲司)

 

とある。この中で『戊寅の年の十二月に崩りましき。』との一文が崩御年を示す。

干支は、同じ名前の年が60年毎に現れる。『戊寅』の年は、西暦198年、258年、318年、378年、、、、、、最近では1998年が対応する。

後の天皇崩御年から逆算すると、318年か、258年が崇神天皇崩御年になる。

 

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 上記の2記事で、古事記記載の崩御年については既に議論している。

ここで、年の記載については日本書紀より古事記が信頼できる理由も述べている。

 

もう一度、上記、古事記の文章を見てほしい。

古事記の文章は全体に「やまと言葉」で書かれている。天皇は「すめらみこと」という。御陵は「みはか」という。

その中で「戊寅」という漢語的表現がいかにも唐突な印象がある。いったいどうしてこのような註が古事記に紛れ込んだのだろうか、と最初私は不思議に思った。

どうやら、歴代の学者もそう思ったらしい。そうして、学者の半分は、これを後世の註とみなして、信用できないとした。

その崩御年の前に168歳というありえない年齢があるのも信用できない理由かもしれない。

 

しかし、残りの半分の方は、古事記崩御年を事実と、あるいは事実に近いとしているようだ。

ここでは、古事記崩御年の記載は歴史の事実か、もう少し中国の史書と比較して考えてみたい。

そこで、中国史書に出てくる倭の5王の記述と古事記崩御年を併記して整合性をみる。

稲荷山古墳から出た刀の銘も併せて記載する。

 

394;応神天皇崩御仁徳天皇即位古事記

    この年に応神天皇崩御された。次は仁徳天皇だ。

413;是歲,高句麗、倭國及西南夷銅頭大師並獻方物(晋書帝紀10)
    晉安帝時、倭王遣使朝貢(南史東夷傳)

    この年に、高句麗倭国が並んで方物を献じた。一緒に来たか、

    たまたま同じ時かわからない。私としては、前年(西暦412年)

    に高句麗の好太王が亡くなり長寿王が即位した時点で、高句麗

    倭の一時的和平が成立した。そうして、高句麗の主導で倭が高句

    麗と共に東晋朝貢したというストーリーを想像したい。

    おそらく高句麗は、東晋の皇帝の前で倭を自らの臣下のように扱っ

    たに違いない。倭の使節はそうした高句麗の態度が気に入らず、

    次回からは独自に使節を派遣した、と想像したい。

    南史東夷傳では倭王としている。

421;高祖永初二年,詔曰:「倭萬里修貢遠誠宜甄可賜除授。」

            (宋書夷蛮伝)
425;太祖元嘉二年,又遣司馬曹達奉表獻方物(宋書夷蛮伝)

    以上の記述から倭王仁徳天皇と類推できる。

427;仁徳天皇崩御履中天皇即位古事記

430;七年春正月・・・是月,倭國王遣使獻方物(宋書帝紀

    この年の倭国王は名前の記載がない。

    あったとしたら履中天皇に対応するはずだ。

432;履中天皇崩御反正天皇即位古事記

437;7月に反正天皇崩御允恭天皇即位古事記

438;死,弟立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽(宋書夷蛮伝)

    夏四月己巳,以倭國王為安東將軍(宋書帝紀

    是歲,武都王、河南國、高麗國、倭國、扶南國、林邑國並遣使獻方物(宋書帝紀

    前年に反正天皇崩御され、この年は允恭天皇の即位した年だ。

    従って、単純に考えると允恭天皇のはずだ。しかし、下の

    443年の記載では、允恭天皇でもあることになる。また、

   珍の弟というのもおかしい。

    ちょっと苦しいかもしれないが、ここは次のように考えたい。

    朝貢使節は、前年の春に出発し、その年の7月に反正天皇崩御

    されたのを知らずに宋の皇帝に謁見した。そこで今の倭王として反正

    天皇の和名を言った。中国側はそれをと名付けた。中国側は、

    間に履中天皇がいたのを知らずに、を念頭に置いて「先王の子か」

    とでも聞いたに違いない。それに対して倭の使節は「いいや、先王

    の弟だ」と答えた。そこで中国側はの弟だと解釈した。

    以上の想像より、は前年に崩御された反正天皇と見たい。

443;倭國王遣使奉獻,復以為安東將軍、倭國王(宋書夷蛮伝)
    是歲,河西國、高麗國、百濟國、倭國並遣使獻方物。

451;加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。(宋書倭国伝)

    秋七月甲辰,安東將軍倭王進號安東大將軍(宋書帝紀

    以上より、允恭天皇となる

454;允恭天皇崩御安康天皇即位古事記

460;倭國遣使獻方物。

    倭国王の名前がない。あれば安康天皇に対応するはずだ。

462;三月。。。壬寅,以倭國王世子為安東將軍。

   濟死,世子遣使貢獻。世祖大明六年,詔曰:「倭王世子,奕世載 忠,作藩外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍、倭國王。」

    安康天皇となる。安康天皇允恭天皇の子だから整合する。

???;安康天皇崩御雄略天皇即位(古事記崩御年の記載なし)

    安康天皇崩御年は古事記に記載がない。前後の記載から462年

    より後で471年より前になる。

471;辛亥年七月...獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)(稲荷山古墳刀)

    稲荷山古墳から出土した刀に年とワカタケル大王の名があった。

    古事記では雄略天皇の和名は「大長谷若建命(オオハツセ

    ワカタケノミコト)」とあるから、ワカタケル大王は雄略天皇

    みていいだろう。従ってこの年に雄略天皇天皇位に

    ついていた。

477;死,弟立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王(宋書夷蛮伝)

    冬十一月己酉,倭國遣使獻方物。(宋書帝紀

    雄略天皇であり、安康天皇の弟であるから整合する。

478;五月戊午,倭國王遣使獻方物,以武為安東大將軍。輔(宋書帝紀

順帝昇明二年,遣使上表曰:「封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,3]裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王

    上記長文の手紙は宋書に載ったくらいだから中国人もよく理解

    できるレベルの中国語なのだろう。見た感じでは、大体四字一組の

    漢文らしい表現になっている。雄略天皇の側近に漢文をとてもよく

    できる者いたに違いない。これだけのものを上表したにもか

    かわらず、の得た称号は「安東大将軍」であって、高句麗の「車騎

    大将軍」はおろか、百済の「鎮東大将軍」よりも下だった。

    雄略天皇は深く失望したに違いない。

    そしておそらく、高句麗の支配する遼東半島に沿い、北朝の支配する

    山東島を伝うという危ない海路を渡らせて、宋に朝貢したところで

    何の益もないと察したのではなかろうか

    つまり宋はあてにならない。

    おそらく、朝貢はこれっきりにした。

    倭は中国皇帝の臣下となって爵位=称号をもらう事を止めた。

    この時をもって中国の冊封体制から独立した。

 

    以後遣隋使・遣唐使の頃になっても中国皇帝の臣下になることは

    避けてきた。

    しかし、中国側は倭を臣下とみなしてくるから、そこに軋轢が生じる。

    そうした軋轢を適当にいなしながらやっていく。

    

    なお、上記文に「裝治船舫」とあるのに着目したい。意味は装備した

    錨などを下ろして、船を海上で固定して、漂流しないようにする事だ。

    こうすることで、高句麗などの敵が陸から攻撃するのを避けた。

    この頃ようやく錨を下すという技術を倭が手に入れた。

    こうした技術があれば、例え騎馬や歩兵を主とする敵が支配する地域

    の沿岸でも比較的安全に航行できる。

    もちろん敵が船を操る技術をもって攻めてきたら危ないけれど。

479;南斉成立。南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(南斉書倭国伝)

    梁が滅び、南斉が成立した。祝賀として、の称号を格上げした。

    おそらく新王朝が勝手に格上げした。使節を派遣したかどうか

    わからない。

    私の推察では雄略天皇はもう新王朝には関心がないから、

    使節は送らなかった。

489;雄略天皇崩御古事記

    大活躍した雄略天皇崩御された。しかしそのことは中国南朝には

    知らされていないから、次の502年の記述となる。

502;梁成立。4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王征東大将軍に進号する。(梁書武帝紀)

    これも新王朝の成立の祝賀として、の称号を格上げした。しか

    しつま雄略天皇は既に亡くなっている。しかし中国側はそれを

    知らない。この事実から、倭は使節を派遣していないことがわかる。

    梁の『貢職図』または『職貢図』というのがある。ウィキペディア

    その図が掲載されている。世界各国から梁に朝貢した使節の人物像が

    描かれている。この年の祝賀会に朝貢した使節を描いたのかもしれ

    ない。

    そこの倭の「使節」は上半身裸の上に黒い布をまとって、実に貧相な

    姿に描かれている。裸足でもある。

    対して、百済使節は中国流の立派な身なりをしている。

    おそらく、倭から使節が来ないから、仮にも中華の帝国としての

    梁の面子を保つために、その辺に(交易あるいは海賊目的で)うろ

    うろしている倭人と思しき人間をつかまえて、使節に仕立てた、

    と想像する。

 

以上、

讃=仁徳天皇

珍=(故)反正天皇

濟=允恭天皇

興=安康天皇

武=雄略天皇

と比較的自然な対応関係ができた。

 

学者によっては、あまりに対応関係が良すぎるから、誰かが中国の史書を知って

古事記崩御年の注釈を加えた、という。

しかし、中国の史書の内容だけから、対応する天皇とその崩御年を想像できるだろうか?

古事記崩御年を素直に受け取って考察する方が生産的だと感じる。

 

古事記崩御年のある天皇は、古い所では、中国や朝鮮の先進地(楽浪郡など)と接触があった時が多い。

おそらく、中国や朝鮮の先進地から年の数え方として倭が干支を習った。

その干支を覚えている間はそれをもって天皇崩御年などを、語り部が暗唱した。やまと言葉を再現できる文字は当時まだない。

しかし、干支は結構数え方が難しい。なかなか身につかない。

中国や朝鮮の先進地との交流が途絶えたり、国内が乱れて干支の数え方に習熟した人がいなくなると、干支の数え方は人々の頭の中から容易に消えてしまった。

そうした繰り返しが、天皇崩御年が一部にしかない結果となった。

干支が 定着するのは31代用明天皇(西暦587年崩御)からと思う。

というのは、用明天皇からようやく古事記日本書紀天皇崩御年が一致するからだ。