高句麗好太王の第3戦(西暦398年)は2年前の百済侵略の引続きみたいなものだ。
今回は「教遣」つまり軍を派遣した。王自身は動いていない。王自身が軍を率いる時は「躬率」という。
第3戦の文は短いから全文を記す:
八年戊戌教遣偏師観帛慎土谷因便抄得莫斯羅城加太羅谷男女三百餘人自此以来朝貢論事
この文の中に百済(百残)という文字はない。
厳密に言うと百済を侵略したかどうかはわからない。しかし、「莫斯羅城」や「加太羅谷」という地名は百済らしい。また前後の文脈から百済に対する行為とみていい。
今回は「教遣」つまり軍を派遣した。王自身は動いていない。王自身が軍を率いる時は「躬率」という。
今回の軍は百済北辺を侵略しただろうが、軍の根拠地はどこだろうか?
碑には何も書いていないから推測でしかないけれど、おそらく昔の楽浪郡平壌辺りに駐屯する軍が動いたのだろう。
戦果としては「男女三百餘人」だ。あまり大したことはない。城も「莫斯羅城」を1つ獲ったか獲らないかだ。
これからも、遠路はるばる集安からやってくるような大規模な戦いとは言えそうもない。
ただ「自此以来朝貢論事」(これより以来(百済)が朝貢し命令に服した。)とあるから、おそらく百済王は震えあがって、高句麗に朝貢し臣下の礼をとった。
百済にとっては、領土の北辺を高句麗軍がうろついているわけだから、(2年前の戦いで58城も獲られたトラウマもあるだろうし、)ものすごく心配だろう。
高句麗に朝貢するぐらいでこの心配がいくらかでも解消するならいくらでも朝貢する。
以上が西暦398年の戦いだ。
仁徳天皇は国内の治世に努めたとの記事はあるけれど、外交に関する記事は古事記にはない。
ただ、枯野という船の記事がある。この船は巨大な木を切り倒して作った、とある。
さすがにこの頃は卑弥呼の頃のような丸木舟ではないだろうが、それでも大きな木を必要とする、準構造船だったろうか?
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また、朝鮮半島の三国史記には、西暦397年に百済の国王が倭国と友好関係を結び太子の腆支人質として送ったとの記述がある。
百済はこのように倭と友好関係を持ちながら、高句麗に臣下の礼を取らねばならなかった。二つの強国に挟まれた国の悲哀と言える。