好太王の第2戦目は百済侵略であってそこに「倭」がちょっとだけ顔を出す。
少し長いが第2戦部分の初め3行の碑文を示す。碑文は例によって王健群さんの釈文を用いる。
(百済[百残としたのは蔑視した。]新羅はもと高句麗の属民で朝貢していた。)
2)而倭以辛卯年來渡海破百残□□新羅以為臣民
(しかるに、倭が辛卯年(西暦391年)以来渡海し百済□□新羅を破って臣民とした。□□は解読できない2文字。)
3)以六年丙申王躬率水軍討伐残國軍至集南攻
(そこで、好太王の6年・丙申年(西暦396年)に王みずから水軍を率いて百済軍(残國軍)を討伐し南に攻めた。)
以上が第2戦の初め3行だ。その後に獲った城の名前がずらずら書いてある。
ここで、1)行から見る。
百済・新羅がもとは高句麗の属民であり朝貢していた、というのは本当だろうか?
高句麗が百済領を奪い取った事を正当化する理由付けにすぎないように見える。
ただ、高句麗は西暦313年に楽浪郡・帯方郡に進出している。西晋の楽浪・帯方への支配力が弱くなった隙をついた。
それより前の三国志魏書東夷伝(この中に魏志倭人伝も含む)には百済・新羅の前身である馬韓・辰韓が楽浪・帯方に朝貢しているとある。
従って、楽浪・帯方を手中にした高句麗は、百済・新羅の朝貢を受ける立場にあるべきだ、という理屈は成り立ちうる。
好太王碑では百済は「百残」として一貫して蔑視している。王健群さんによると、「残」は悪い字であり、良い字である「済」の反対語だそうだ。つまりわざと反対語を用いて貶めた。
昔、前漢を滅ぼした王莽が高句麗を攻略した時に、「下句麗」と名前を変えさせた。
次に、2)行は有名な「辛卯年条」だ。
2)而倭以辛卯年來渡海破百残□□新羅以為臣民
この1文をもって、古代日本が朝鮮半島南部を支配していた、とする日本の学者が多くいた。
特に、日本に最初に「拓本」(正確には拓本でなく紙を碑に押し付けて字の輪郭を押し出し、輪郭に沿って墨を塗って字を浮き立たせたもの。碑の表面の凸凹が大きくて拓本を取りにくい時に使う。墨本といったりするらしい。)を持ち込んだ酒匂という人が旧日本軍のスパイだったことも、その後の混乱に拍車をかけた。
余談だが、酒匂本は墨本制作時に誤字が少し発生した。しかし、数ある「拓本」のなかで字が最もくっきりしていて見栄えがいい。酒匂スパイは余程金を積んだに違いない。
第二次大戦後に韓国・朝鮮の学者は、古代日本が朝鮮半島南部を支配していた、というような事はあり得ない、と反発した。
ある学者は、好太王碑に石灰が塗布されているのを見て、旧日本軍が好太王碑の碑文を捏造した、とまで言った。いわゆる石灰塗布作戦だ。これは現在否定されている。
こうした議論はいずれも、当時出回っていた拓本を基にしていた。
そこで、中国人の王健群さんが実地に赴き好太王碑の碑文を半年ほどかけて解読した。
その時、石灰を塗布したのは、地元の拓本づくりを職業とする住民だとわかった。表面をできるだけ石灰で平らにして拓本を取りやすくした、ということらしい。
その、石灰は1年ももたないために現状はかなり剥げ落ちているらしい。
辛卯年(西暦391年)以来倭が進出した、とある。
この頃の朝鮮半島における倭の動きの分かる資料は他にあるだろうか?
かなり後世の記述であって真偽性は割引く必要があるが
古事記(西暦712年成立)や
三国史記(西暦1145年成立)がある。
仲哀天皇の崩御後に神功皇后が新羅を征討した。古事記では仲哀天皇の崩御年が壬戌の年(西暦362年)だから古事記の記述に基づくならその後数年にあった。
征討とはいっても、金銀などの宝が目的らしく、大船団で新羅に押し寄せて、新羅の王を屈服させたら、さっさと帰っているようだ。
日本書紀も同様な記事だが、神功皇后を卑弥呼に比定するという120年(干支で言うと2回り。同じ干支は60年毎に現れる。)の間違いを犯している。
朝鮮側の資料として、三国史記の新羅本紀には、西暦364年に「倭の兵が大勢できた。多数で直進してくるのを伏兵が討って敗走させた。」とある。
また同じく新羅本紀に、西暦393年には、「倭人がきて金城を5日間包囲した。」とある。
さらに新羅本紀にやや後年だが、西暦408年に
「倭人が対馬を本拠にして新羅を攻撃する準備をしている。新羅国王が兵站線を逆襲しようと考えたが、部下に『大海を渡って他国を攻撃するのは危険だ』といさめられて止めた。」とある。
この記事で面白いのは、倭の本拠は対馬であって、朝鮮半島ではない点だ。倭は朝鮮半島に根拠地をもっていない。
しかし、魏志倭人伝では、倭の北岸は狗邪韓國であって、朝鮮半島に倭人が住み着いていた。150年後にもおそらく住み着いていただろうが、そこは本拠地にはなりえなかったと読める。
このように、倭が新羅を攻撃した記事はいくつかあるが、領土的野心はあまり見られない。
百済との戦いに関する記事はないけれど、倭が新羅のみならず百済へも進出している可能性は十分ある。百済とは平和的関係が多かったかもしれない。
以上のように、好太王の頃に、倭は朝鮮半島南部に出没していた。
魏志倭人伝の頃に交易をしていた倭人はそれから150年経って、人口も増え、船や武器の技術も進化して、より攻撃的になっていたかもしれない。
ただ、倭人はやはり海の民だ。基本的に船で海から攻撃して不利になると海へ戻る。陸の戦いはあまり得意ではない。
倭が朝鮮半島南部に出没するには、上記に示したように西暦391年以前からだ。
それなのに、なぜ好太王碑では西暦391年以来と限定したか?
詳しくはわからないが、西暦391年が好太王の即位の年であることが意味がありそうだ。
好太王碑は好太王の事績を顕彰する。より話をドラマチックにするために、好太王の在位中に倭が攻めてきた、としたかったかもしれない。
この「渡海」という語は魏志倭人伝では、朝鮮半島から対馬へ大海を渡った時に使われた。
好太王碑の「渡海」は逆方向に対馬から朝鮮半島へ渡った事を意味するようにも見える。
しかし、朝鮮半島の北の端に本拠を持つ好太王がわざわざ1000キロも離れた半島南端の倭の動きを把握するだろうか?
「渡海」とは単に海の方からやってきたという意味だと思う。
襲われた住民は分が悪い時はとりあえず屈服するしかないだろう。
しかし、そうした屈服は、高句麗から見ると、百済・新羅が裏切ったと見えただろう。それが臣民とした、という表現に見える。
裏切ったから高句麗としては攻める理由ができた。
そうして3)に至る。
3)以六年丙申王躬率水軍討伐残國軍至集南攻
倭が西暦391年に進出して以来5年経って西暦396年にようやく好太王が自ら動き出した。
ここで「水軍」を率いて百済軍(残国軍)を討ったとある。
「水軍」とは何だろう?騎馬を得意とする高句麗軍がなぜ「水軍」を用いたのか?
ここの「水軍」とは川で使う舟を言うのかもしれない。当時陸上の道はそれほど多くはないから、軍を移動する時にできれば川を使うのが便利だった。例えば、集安から平壌さらに南のソウルへ行くときに、まず鴨緑江を使っただろう。
高句麗軍の武器は馬だから、馬は外せない。馬を運べるほど大きい舟が当時既にあったと想像したい。
大きいといっても、例えば矢切の渡し[1]の舟程度で馬が運べる。実際昔は矢切の渡しの賃料が「1人3文。馬5文。」と記録にある。川であればそんなに大きな舟でなくても馬が運べる。
[1] https://www.matsudo-kankou.jp/yakirinowatashi/
また、ここでわざわざ「水軍」と記したのは高句麗にとって舟が当時の最新兵器だったから、とも考えられる。
そして攻めたのは百済だ。
新羅は攻めていない。また倭も攻めていない。
なぜ百済か?
好太王よりも150年前だが、三国志魏書東夷伝にあるように百済つまり昔の馬韓は人口が高句麗の5倍くらいあった。
人口が多いということは、作物が多く取れることを意味する。そうした土地と人を獲るのが目的だった。
そこには、倭との戦いは一切ない。倭が進出したから攻める、というのは単に理由付けでしかない。
本音は百済の土地と人を奪うことだ。
まず遠い。新羅の首都は慶州だからほぼ朝鮮半島の南の端だ。そんなところまで遠征したくない。
次に新羅は人口も多くない。だから侵略する旨味がない。
むしろ遠交近攻策を用いて新羅を手なずけて百済を討ちたいと考えた。
以上で、好太王の第2戦目の前半部を終わる。
後半部は簡単に済ます。
たまらず百済は迎え撃った。
好太王は百済が刃向かった事に赫怒して、川を渡って城を包囲した。
残主(百残の主:百済王を蔑んで言った。)は困惑し、男女奴隷一千人と細布千匹を差出し、奴客となると誓った。
好太王はこれを許した。
この戦いで好太王は百済の北辺を侵略して、58城・700村を獲得した。
百済の首都を包囲までした。首都はおそらく今のソウルに近いところにあった。
しかし、首都を陥落させて百済を滅ぼすまでには至らなかった。
軍も長距離の遠征で疲弊してきたし、58城も獲得し、戦利品も多くえたから、とりあえず今回はこれで終わらせよう、といった気分だったろう。
以上が西暦396年の百済侵略だ。
西暦396年の百済侵略の中で「倭」という語は「辛卯年条」に一度しか出てこない。
倭が百済を臣民としたから百済を攻めた、という理屈だが、そこに倭との戦いは記載されていない。あくまで高句麗と百済の戦いだ。
ここから、倭というのは百済を攻めるための理由付けでしかなくいわゆるトリックスター(trickster.日本語では引き立て役?)だという人もいる。
トリックスターは言い過ぎだと思うが、他方で「辛卯年条」の一文のみを取上げて倭が朝鮮半島の南を支配していたというのも言い過ぎと考える。
倭はあくまで海の民であって、春になると朝鮮半島沿岸に現れて、交易をしたり、時に暴力を使って物を奪ったりするけれど、冬が近づく前にさっさと帰ってしまう。冬の対馬海峡を渡海するのは海の民の倭人でも危険だった。
百済の王は、倭と仲良くすることで、倭の略奪から身を守ろうとした。
しかし、そうした行為は高句麗にとっては背信行為と考えられた。
そこで高句麗が怒って攻めてくればそれに屈服する。
百済にとっては、倭が来れば倭に従い、高句麗がくれば高句麗に屈服するのが生き残る方法だったと思う。
ただ百済は、どちらかといえば倭に友好的だった。
それは、高句麗の真の意図が百済を呑込む事だから、いやでも倭に頼らざるを得なかった。
古事記には以下の記事はない。
古事記記載の崩御年では応神天皇の治世は西暦362年から西暦394年だ。
応神天皇の治世の時に、高麗(こま:高句麗の事)の王から朝貢の使者が来た。その手紙に「高麗のきみ、やまとのくにに教ふ(教える)」とあった。中国語に堪能な天皇の太子:「うじのわきのいらつこ」がそれを無礼だとして手紙を破った。
この記事から当時の外交の様子が推し量れる。
第1に、高句麗とは戦いながらも外交もあった。戦争しながらでも使節の交換はした。それが当時の外交の常識だった。
例えばすこし後世の例だが、新羅は唐に朝貢しいかにも従順そうにしながら、他方で唐の朝鮮半島の占領地を奪い取っていった。
これを面従腹背と非難もできるが、小国が大国の傍らで生き延びるための術だったともいえる。
第2に「教える」という上から目線から推察すると、高句麗は倭を見下していた。だからやまとの太子が怒った。
一方、日本書紀の朝貢という語から、倭の側からは高句麗を見下している。
つまり、倭と高句麗は、(少なくとも国内的には、)お互いに相手を見下す関係と言える。
外交とはそうしたものかもしれない。
その名残は現在でも国と国との条約名に残る。
例えば日米安保条約は、日本では
と日本を先にいい、アメリカでは
「Security Treaty Between the United States and Japan」
と言って、the United States を先に言う。
この国の順が逆になると、ほんの少し国と国の関係がよくなるか、とあらぬ事を思いつく。