新羅救援の大作戦から4年程は割と平穏だったらしい。
しかし、西暦404年に倭が不法にも帯方地方に侵入した。
原文は以下だ。
十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界
ここで「不軌」という言葉が気になる。王健群さんの解釈では「法制に基づかないで事を運ぶこと。両国の正常な関係を破壊したことを指す。」とある。
ということは、倭と高句麗との間で話し合いが行われ、約束事があったことを暗示する。
現代でも、戦いの後では、必ず条約を結ぶ。それをしないといつまでも戦争状態が続くこととなって敗者だけでなく勝者にも負担が大きい。
相手の戦闘能力を100%失わせれば話は別だが、海の倭と陸の高句麗の間で互いに相手を完璧に叩き潰すことは難しい。
倭と高句麗の間の条約(約束事)がどんなものかはわからない。好太王碑にはただ「不軌」という語により条約のようなものがあった事を暗示するだけだ。
「帯方界」はもとの帯方郡の地帯だろう。帯方郡がどこにあったかは未だ明らかでないようだ。
帯方地方は、90年程前から既に高句麗の領地だ。
そこに倭が侵入してきた。
5年前から百済が倭と通じているとの情報はあった。しかし4年前に新羅救援の大作戦を行ったために、兵を休める必要があって、百済方面がおろそかになった。
その間隙をついて倭がいつの間にか、百済に浸透し、さらに高句麗の領土である帯方地方まで進出してきた。
好太王はすぐに自ら出動した。
「従平穣」とあるから平壌より出動した。既に平壌に高句麗の軍事拠点が出来上がっていただろう。首都はまだ朝鮮の北端の集安だが、高句麗の拠点が徐々に南に移っている。
好太王碑の表現では、「倭寇」を潰敗させ無数の敵を殺した、とある。
今回の戦いはいわば侵入してきた敵を撃退することであって、戦果はあまりない。
好太王碑の記事も比較的短い。
好太王の怒りは百済に向けられる。それが軍事行動として実現するのは3年後だ。
例によって、古事記には上記のような記述はない。
三国史記百済本紀には倭と百済との友好関係を示す記事がいくつかある。
例示すると:
397年、百済王は太子を人質として倭に送った。
402年、倭の大きな珠を求めた。
403年、王は倭の使者を厚く遇した。
405年、百済王が死に、倭王は人質の太子に百人の兵士をつけて送った。
以上の記事のすべてが事実か疑問だがおおむね友好的だったと見える。