帯方地方へ進出した倭を掃蕩してから3年後の西暦407年に、高句麗の好太王はようやく軍を百済に向けた。
百済が誓いに反して倭と通じてから8年の歳月が経った。
7年前には新羅救援のために朝鮮半島南端までの大遠征をやったし、百済を侵略するには十分な準備が必要だった。
好太王は自らは動かずに、歩兵・騎兵合わせて5万の軍を派遣した。
鎧一万余、軍資機械無数を獲得した。6城(王健群さんが脱字の数から推計)を破った。
11年前の百済侵略では58城を奪取しているから、今回の戦果はそれに比べるとかなりしょぼい。
そもそも百済の首都を落としていない。
好太王碑には都合の悪いことは記されていないが、おそらく百済側も頑強に抵抗した。
西暦371年、百済の近肖古王の時に、高句麗が領有する平壌城を攻め落とす。戦いの最中に高句麗の故国原王が戦死した。故国原王は好太王の祖父にあたる。好太王はまだ生まれていないが、この記憶は高句麗の百済への復讐心をあおったに違いない。
西暦475年、高句麗長寿王が百済の首都漢城(いまのソウルか?)を陥落させる。百済が一時滅亡し、南の熊津に逃れる。
このように高句麗と百済が争っている間に、3国のうちの最弱の新羅は南方のへき地の慶州にあってじっくり実力をつけていった。