好太王碑に記載がある最後の戦いは西暦410年の東扶余の制圧だ。
東扶余はもとは高句麗の始祖である鄒牟王の属民だったが、叛いたから討った、とある。
随分古いことを持出す。東扶余から見れば言いがかりと言える。
高句麗は北扶余の出目だとしている。従ってどの部分であろうと扶余の制圧は故郷に錦を飾るようなものかもしれない。
帰途に王を慕って従うものが多かった、とある。
以上で、好太王碑に記載されている王の戦歴は終わる。
実は、碑に記載がないが、好太王は、春秋戦国時代の燕の地を支配する慕容氏の後燕とも戦っていて、遼東半島を奪ったらしい。
ところがその記事は好太王碑にはない。
なぜ、ないか?
後燕は高句麗から見ると、中華を支配する帝国であって、歴史上の立場としては高句麗が朝貢するべき対象だった。
高句麗好太王碑が記す世界観は、徳のある高句麗の王がその徳により周辺の蛮族を教化し従わせるものだった。
従って、高句麗王よりも目上の存在である後燕は邪魔者であり、碑に記載してはならないものだった。
以上の理由により、後燕については一切碑に記載がない。
ご存じのとおり「中華思想」というのは、徳のある中国の皇帝がその徳により周辺の蛮族を感化し従わせるものだった。
高句麗は周辺の蛮族だったが「中華思想」を都合よく受け容れて「中国の皇帝」を「高句麗王」に置き替えてしまった。これが「小中華思想」だ。
おそらく、東夷と呼ばれる国々のほとんどが「小中華思想」にかぶれていたと思う。
百済、新羅もそれぞれ「小中華思想」を抱いてお互いに相手を見下していたと思う。
日本もまた同様だ。
日本書紀には、高句麗、新羅、百済が「朝貢した」との記事がある。
それは日本側がそう解釈しただけであり、相手側は日本を教化するつもりだったろう。
おそらく、一方で戦いながら他方で倭を含めて4国はお互いに使節を交換していた。そうしてお互いに相手の使節が「朝貢」してきたと言い合っていたと思う。
そういう「小中華思想」の立場からは、中国は不都合な存在だ。
日本でいえば、天皇が唯一絶対の存在であり、その天皇の使節が中国に朝貢するなどは「あり得ない」ことだ。
「あり得ない」事ならば無かった事とする。
そういう趣旨で、古事記・日本書紀から中国への朝貢の記事が消えてしまった。
さらに、
高句麗との戦いは勝ったり負けたりだったと思うが、そうした対等の関係もまた「小中華思想」の立場からは不都合だから、古事記・日本書紀の記事から消えてしまった。
話が飛躍し過ぎた。
好太王碑に中華の帝国後燕の記載はないのは、「小中華思想」の立場からは不都合だったから記載しなかった。
では、倭は、高句麗にとって教化すべき蛮族だったろうか?
おそらくそうだった。
日本書紀に記載がある。
応神天皇のとき高句麗王(書紀では高麗王となっている。)の使いが朝貢した。
その書に「高麗の王、日本国(やまとのくに)に教ふ(おしふ)」とあったのを読んで太子の「うじのわきいらつこ」が怒ってその書を破り捨てた。
上記で「教ふ」というのがまさに「教化」の意味ととれる。
高句麗側は日本に「教える」つもりで使者を送った。
太子の「うじのわきいらつこ」は、漢文を読めるようになった最初の支配層かもしれない。高句麗の書を読んで、日本側からみればその「傲慢さ」にびっくりし大いに怒った。
なお、上記で「朝貢」と記載するのは日本側が勝手にそう解釈しただけであって、高句麗側は決して朝貢したつもりではない。
最後に、
好太王は39歳でなくなった。
西暦391年に18歳で即位したから、亡くなった年は西暦412年プラスマイナス1年と計算できる。
プラスマイナス1年を加えたのは、満年齢か数え年齢、誕生月日、死亡月日によってずれるからだ。
西暦414年に息子の長寿王が好太王碑を建立した。これは好太王碑に記載がある。
その1年前(西暦413年)、晋書に
是歲高句麗倭國及西南夷銅頭大師並獻方物 [晋書帝紀10巻安帝]
とある。
西暦413年に、高句麗、倭国、西南夷、銅頭大師(?)が晋に朝貢した。
つまり、好太王碑の時代の終了とともに倭の五王の時代へ突入する。