わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

高句麗好太王碑-2 -好太王碑文の構成

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上の写真に示すように、1500年間好太王碑は、現在の中国と朝鮮の国境の川沿いの集安市に立っていた。

高さ6.4mとでかいから目立たないわけないと思うが、1875年まで忘れ去られていたらしい。

今はガラス張りの建屋で保護されている。

いびつな4角形をして、底辺での4辺の幅は第1面:1.48m(南東)、第2面:1.35m(南西)、第3面:2.0m(北西)、第4面:1.46m(北東)だ。

各面を方眼紙のように区分けして1枠に1文字ずつ描いた。1文字の大きさが14-15cmくらいだ。

勿論縦書きで、4面全部で44行、各行に41文字となる。

全体の文字数は1775だ。そのうち王健群さんが判読不能としたのが141文字あるという。それ以外は大体読めていることになる。

 

全体は3部分に分かれる。(1)好太王の出生、(2)好太王の戦歴、(3)墓守の保護となる。以下、碑文をざっと見る。

 

(1)好太王の出生(第1面、第1行ー第6行)

高句麗の)始祖は鄒牟王だ。出目は北夫餘である。その17世子孫が國岡上廣開土境平安好太王だ。18歳で即位した。39歳で亡くなった。甲寅の年(西暦414年)に碑を建てた。

ここで、中国の干支の『甲寅』が出てくる。『甲寅』は西暦234年、294年、354年、414年、474年、534年などのうちのどれかに対応する。

ここで西暦414年に対応するとはどうやってわかるのだろう?

おそらく、中国の史書、朝鮮の三国史記などとの対応から414年とわかるのだろうが、私個人としてはまだ確かめきれていない。

とにかく、好太王碑は永らく、辺鄙なところにある大きな石碑でしかなく、1875年にようやく高句麗好太王の碑らしいとわかった。

なお、好太王は正式には上記『國岡上廣開土境平安好太王』だ。人によっては『広開土王』と言う。ここでは、多くの人が言う好太王で通す。

 

(2)好太王の戦歴(第1面、第7行ー第3面、第8行)

・乙未(西暦395年)碑麗を討った。帰りに襄平道を通ったとあるから渤海の北辺りだ。これは新任国王の初陣みたいなものだろうか。これが好太王の5年だから即位年は西暦391年と分かる。

百済新羅はもともと高句麗の属民だったが、辛卯(西暦391年)以来倭が海を渡って破り臣民とした。そこで丙申(西暦396年)に好太王が水軍を率いて百済を討ち、58城を破った。

・戊戌(西暦398年)百済辺境に軍を派遣したので百済が恐れて朝貢するようになった。

・己亥(西暦399年)百済は誓いを破って倭と通じた。新羅倭人の侵略にあって助けを求めた。王は新羅に密計を授けた。

・庚子(西暦400年)新羅に援軍を派遣して倭を討ち、任那加羅まで追った。取り返した城は羅人(新羅の人)に守らせた『安羅人戍兵』。

ここで『安羅人戍兵』が3回出てくるのを、高句麗に対抗する安羅国の兵と解釈するのは文脈上おかしい。

王健群さんは、高句麗軍が城を取返すたびに新羅の兵に守らせたと解釈する。従って『安羅人戍兵』が3回出てきてもおかしくない。ちなみに『戍』の字は英語でgarrisonの意味らしい。garrisonは駐屯兵だから、王健群さんの解釈はもっともらしい。

当時高句麗の本拠は今の中国と北朝鮮の国境地帯にあるから、任那加羅までは相当な遠征になる。おそらく十分な準備をして行った作戦だ。

・甲辰(西暦404年)倭が約束を破って『倭不軌』帯方に侵入してきたから王自ら討って倭寇を潰敗させた。

『倭不軌』というのが気になる。倭と高句麗の間で何らかの約束事があったかもしれない。

・丁未(西暦407年)歩兵騎兵合わせて5万の軍を派遣して百済の6城を破った。

・庚戌(西暦410年)東夫餘を討った。

好太王は生涯に64城1400村を破った。

 

(3)墓守の保護(第3面、第8行ー第4面、第9行)

好太王碑の目的の一つが墓守を保護することだ。

好太王碑の近くには「大王陵」がある。これが好太王の墓とされる。

墓守は身分が低くて皇族によって売られることがあったらしく、好太王碑では墓守を売った者は死刑、買ったものは墓守に落とす事を定める。

墓守は『國烟』30家と『看烟』300家で構成する。

1人の『國烟』が10人の『看烟』を部下としたかもしれない。

時代は下るがモンゴルの兵制では1人の十戸長が10人の部下を持つ。次は1人の百戸長が10人の十戸長を直属部下にもつ。以下同様に、千戸長、万戸長となる。そうしたシステムとの共通点を見出したくなる。

220家は好太王が破った城・村から人を配置した。110家は旧民からとった。

合わせて330家が好太王墓の墓守だったろうか?それとも集安市に点在する王墓を皆守ったのだろうか?どうも好太王墓1つに330人は多すぎるように思う。

日本でも古墳に墓守がいた。『陵戸』という。『陵戸』の身分についての法律も定められたらしい。『延喜諸陵寮式』によれば天皇陵は5から10人の墓守がいたようだ。どこでも同じような問題があり悩んでいる。

 

好太王碑というと、上に出てくる「辛卯(西暦391年)以来倭が海を渡って破り臣民とした。」といういわゆる辛卯年条のみが注目されてきた。

しかし、好太王碑から得られる歴史に関する情報はそれだけではない。

これを機会に、好太王碑の全体像を少しでもイメージしてもらえばうれしい。

 

以下の2つの本を参考にした。

[1]王健群、「好太王碑の研究」1984

[2]王健群・賈士金・方起東、「好太王碑と高句麗遺跡」1988