しかし成立年代となると、この順序ではなく、史記⇒漢書⇒三国志⇒後漢書だ。
後漢書の成立がやたらと遅くなってしまった。陳寿さんの三国志の成立から200年近く遅れて成立したのだ。
なぜ後漢書が遅くなったか?それは陳寿さんが後漢書よりも三国志を優先したからだ、などといいかげんな想像をしてみたくなる。
史家というのは歴史を記録することにより後世に著者として名を残す事ができる。
既に陳寿さんの前には、史記を書いた司馬遷、漢書の著者班固という歴史に名を残した史家がいる。
陳寿さんにもそうした先達に続こうと思う功名心が当然あっただろう。
陳寿さんは、そうした立場に任官したときにおそらく考えたに違いない、後漢書を書くか?三国志を書くか?と。
三国並立の時代は50年くらいしかないから、量が少なくて済むし、また英雄も多くいる面白い時代だ。
一方で、後漢の時代は光武帝の建国後はあまり面白くない時代が200年も続く。
功名心の旺盛な人なら、労多くして功の少ない後漢の歴史よりも三国並立の面白い歴史を書きたがるだろう。
陳寿さんの偉い所は、三国それぞれの歴史書を書いたことだ。つまり魏書だけでなく、蜀書と呉書も書いた。その3個の書を集めて三国志とした。
もっとも三国の間には量的な差がある。文章の量としては
魏書:蜀書:呉書が4:1:3くらいだ。
そうすると、先を越された後漢の歴史を誰が書くかだ。
後漢の滅亡から250年も経ってようやく范曄さんが後漢書を書上げた。
不幸にして范曄さんは謀反の罪で殺されてしまったが、
後漢書は、史記・漢書・三国志とともに四書として後世に名を残す事ができた。