さらに卑弥呼の時代の倭の人口を地域ごとに考えたい。
幸いなことに、小山修三さんの調査では、地域ごとの人口まで産出している[1][2]。
[2] 鬼頭宏著「人口で見る日本史」
それによると
北九州 40500 人
南九州 64600
山陽 48900
山陰 17700
畿内 30200
畿内周辺 70300
東海 54400
北陸 20700
甲斐信濃飛騨 85100
とある。
こうしてみると我々が普通にイメージする文明の発達度とかなり異なる結果だとわかる。
例えば、北九州とか畿内の人口が他地域に比べてむしろ少ない。南九州が北九州に比べて多い。畿内は畿内周辺に比べて少ない。内陸の甲斐信濃飛騨は面積が大きいとはいえ多くの人口を抱える。東海も多い。出雲のある山陰はずいぶん少ない。等々。
我々が普通にイメージする文明の発達とは、稲作が鉄と共に韓半島を通して日本に到達した。従って弥生文化(弥生文明と言うほうが適当か)は北九州から始まった。それは西へと伝播して、大和地方や出雲地方に根付いていった。というものだ。
そうした文明の発達経路と、上記人口分布とはどうも整合しないように見える。
敢えて言うと、邪馬台国がたった3万人しかいない畿内にあったろうか?
北九州より人口の点で優位な南九州にあった方が考えやすいのでは?
一方で、より高度な文明をもった部族が未開の広野を目指して北九州から征服の旅を続けて畿内に落ち着いたとも考えられる。