わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

漢書地理志より考察

漢書地理志というのは、

前漢の最終期(西暦2年:平帝の2年目、平帝の補佐役に前漢を滅ぼす王莽が就任)

における、郡名、県名、郡の人口等を羅列記載したものに解説が付く。

例えば、楽浪郡の項には以下の記述がある。

 

樂浪郡,戶六萬二千八百一十二,口四十萬六千七百四十八。縣二十五:朝鮮,俨邯,浿水,含資,黏蟬,遂成,增地,帶方,駟望,海冥,列口,長岑,屯有,昭明,鏤方,提奚,渾彌,吞列,東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。

これから、楽浪郡は戸数が62812戸で人口が40万6748人いる。25の県から構成されていて、その中に後に分離して郡に昇格する帯方の名もある。県で最初に記載された朝鮮に郡の本部があるようだ。

といった事がわかる。

楽浪郡の人口40万というのはかなり多い。

 

同時に設置された玄菟郡は人口22万だからこれもまあまあ多い。

玄菟郡,戶四萬五千六,口二十二萬一千八百四十五。縣三:高句驪,上殷台,西蓋馬。

ここに高句麗の名が出てくる。

 

その隣のより中央に近い遼東郡の人口は27万人だから、先進地よりも楽浪郡の人口が多い事となる。

遼東郡,戶五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平,新昌,無慮,望平,房,候城,遼隊,遼陽,險瀆,居就,高顯,安市,武次,平郭,西安平,文,番汗,沓氏。

遼東郡の本部は襄平だ。後に楽浪、帯方を支配する公孫氏の本拠となる。

 

ついでにさらに中央に近い遼西郡は35万人となってやっと楽浪郡に近い人口となる。

遼西郡,戶七萬二千六百五十四,口三十五萬二千三百二十五。縣十四:且慮,海陽,新安平,柳城,令支,肥如,賓從,交黎,陽樂,狐蘇,徒河,文成,臨渝,絫。

このように、楽浪郡は比較的人口が多い豊かな地域だったように見える。

何よりも南の方が暖かく降水量が多く食物も多い。養える人の数も多い。

 

では、首都の長安はどのくらいか?地理志最初の方に記載がある。

京兆尹,元始二年戶十九萬五千七百二,口六十八萬二千四百六十八。縣十二:長安,新豐,船司空,藍田,華陰,鄭,湖,下邽,南陵,奉明,霸陵,杜陵。

長安周辺は「京兆尹」と呼ぶらしい。人口は68万人であってやはり多い。

多いが、他を圧倒するほど多くはない。植民地みたいなものの楽浪郡玄菟郡を合わせた程度の人口だ。

これでは、地方から来た人々を驚かせ服従させることはできない。

そこで、漢の皇帝が住む所としての威厳を保つために、長安を整備して、宮殿を立てた。

 

中国全体では西暦2年に郡・国が103あって、総人口が 5959万4978人だった。

民戶千二百二十三萬三千六十二,口五千九百五十九萬四千九百七十八。漢極盛矣。

この時が漢の極盛だそうだ。この後は衰退したのか。

因みにこの数は、各郡・国の人口を合計した数と200万人ほど違う。漢のお役人は計算が不得意だっただろうか。

当時算盤という便利なものがあったかどうか。

籌算(ちゅうさん)という、箸みたいな棒を使った計算は戦国時代からあったらしい。

筆算をするとき数字を縦に書いた(大きな桁の数を上に書いた)だろうか。そうするといかにも計算がやりにくそうだが、単に慣れの問題だろうか。

等々、想像すると可笑しい。

 

ともかく、

西暦2年に約6000万の人口があったというのは大変なことだ。

例えば日本では、小山さん(小山修三「縄文時代中公新書)が西暦200年の日本の人口を60万人としている。

中国に比べて、100倍の人口の差があったことになる。 

 

世界的には、Angus Maddisonの試算があって、インドが7500万人だ。

インドを見直さねばならない。

ただ、インドが統一されれば強力な国家となっただろうが、歴史上インドが統一国家を形成したことはなかったといっていい。

 

当時のローマ帝国全域の人口は西暦14年に4550万人だったらしい(Wikipedia ローマ帝国の人口学)。

 

当時の人口は食料の生産高で限定され、食料の生産高がGDPつまり国力そのものだと考えると、

インド:中国:ローマ帝国=7500:6000:4550

となる。

う~ん、なんとなく納得できそうな、ちょっと意外そうな数字だ。

 

漢書地理志に戻る。

今日我々が手にする漢書地理志は、上記に例示した最小限のシンプルなものではなく、各時代の註がいろいろ付いたものらしい。以下の帯方郡の位置についての考察はそうした註を基にしていた。

それはそれで意味あるとは思うが、そうした註にあまりこだわり過ぎないようにしたい。

 

このように、漢代に国勢調査が行われていた。目的は税を取るためだろう。だから、結構厳密に人数や戸数を数えたに違いない。

地方の役人は一戸一戸回って人数を数えただろう。漢の時代のように、中央政府の力が強いうちは人々も「しょうがねえな。」と従っただろうが、権力が弱くなると税金逃れが多くなったに違いない。

実際、晋書地理志によると、

前漢末(西暦2年)  5959万4978人

後漢中(西暦157年) 5648万6856人

西晋初(西暦280年) 1616万3863人

とあって、三国時代の戦乱の後に人口が1/3に減っている。

実際に、人口が1/3に減るような事があるだろうか?

気候の長期的変化、とくに寒冷化や、ペストとか天然痘とかの感染症が原因となる可能性はあるかもしれない。

一方ただ単に、西晋という国に帰属する人の数が減ったという可能性もあると思う。

西晋の前の三国志の頃の呉の国の歴史には、山賊というのがかなり頻繁に登場する。呉の国はそれに大いに悩まされた。

こうした連中は当然国家に帰属しないわけだから、国勢調査の対象ではなく、上記人口には組み込まれない。