わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

古代ギリシャの船を発見

古代ギリシャの船を黒海海底で発見したそうだ。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181024/k10011683461000.html

2400年前の船らしい。どうやって2400年前とわかったのか?おそらく炭素14による測定だろう。

三つ着目したい点がある。

第一にマストがあって帆を使っていたらしい事。

蒸気機関もエンジンもない時代には、動力源は人力か風力しかない。そしてそんな昔つまり紀元前400年頃に既に風力を使っていた事が重要だ。

そうすると、東アジアでも、卑弥呼の時代つまり西暦240年頃に帆を使い風力を利用した船があってもおかしくない。

第二に丸木舟のような一本の木から切出した船ではない事。

いくつかの木の部品を剥ぎ合わせ、つなぎ合わせて作ったものである事。

想像してもらいたい、水漏れのないように木と木をつなぐのがどれだけ大変な事か。少なくとも私のような素人ではとてもできない。

そうした部品をつくるための道具も要るだろう。道具は鉄製に違いない。

第三に大きさが20メートルくらいでそれほど大きくない事。

その程度の大きさで大海原を行き来していたのだ。嵐にでもあったらかなり危険だったのではないか。おそらく天気の悪いときは原則として航海しないのだろう。

そうはいっても、発見された船のように天候を見誤ったか、何かの事故で沈没する事がある。

そうして後世の我々への貴重な贈り物となってくれる。

乖船南北市糴

魏志倭人伝には「南北市糴」という語が2度出てくる。

この意味は南北へ行って(主に米を)交易するということらしい。

一度目は対馬で、二度目は壱岐で、それぞれの島の島民が船に乗って「南北市糴」している。

という事は、韓半島と北九州の間で交易があったという事だ。交易というからには行き当たりばったりではなくて、ある程度計画的に日常的に船で往来していたと想像する。

当時の船で、当時の航海術でつまり羅針盤もない時代にそんなことが可能だろうか?

当時の船と考えられる船を作って実験航海をした例がふたつある。

(1)まず角川春樹さんが「野生号」で韓半島から対馬壱岐北九州と渡海した。しかしこれは一部曳航してもらっている。

(2)なみはや号というのが作られたが、ボートの上に別の船を乗せたような構造であって、とても渡海できるような代物ではなかった。安定させるために重しをたくさん積みこんで他の船に曳かれてようやく対馬海峡を渡ったそうだ。

他には知らない。

最近ではどういう理由でか冬の対馬海峡をゴムボートで渡ろうとして亡くなった公務員がいた。ゴムボート自体は北風にあおられて北九州に流れ着いたらしい。

では「南北市糴」は実証できていないのだろうか?

直接的には実証できていないように思う。

しかし傍証として、隠岐島から松江まで5-6人が乗れる丸木舟で渡った例がある[1]。

 [1] 「縄文の丸木舟日本海を渡る : 縄文時代の再現に挑んだ教師達の記録」 からむし会編、1982年

この例では56kmを12時間43分で渡った。時速は4.4kmだ。

対馬から韓半島まで60kmだからほぼ同じだ。

昼間の長い夏ならほぼ一日で行ける。

もしも夜になって目的地が見えなくなると危ない。対馬海峡などは深さ100mくらいあるから、錨を下ろして船を止めておくことができない。船が流される。流されると大海原では自分自身の位置がわからなくなってしまう。つまり漂流する。

従って、日中に目的地が見えるうちに一気に渡海しなければならない。

それでも時間がかかって夜になることもあるだろう。そういう時は、目的地で灯台になるように火を焚いてもらったかもしれない。「烽火」というのがそれではないだろうか。

私が想像するところでは、韓半島から対馬へ、対馬から壱岐へ、壱岐から北九州へ、それぞれを一日で一気に渡海したと考える。

なお、上記縄文の丸木舟では海の波でひっくり返るのではないか、という懸念をもつ人もいる。その通りではあるけれど、上記の学校の先生方は実際に渡海している。海が荒れていない時を見計らえば可能だろう。

あともう一つ上記先生方の経験としては海流の影響が意外と小さかった事だ。海流の速度も計算に入れて漕ぐ方向を決めたのにそれが少ないから方向を修正した。たぶん丸木舟が、風の向きに動く表層流の範囲内に浮かんでいたのだろう。

 

年已長大無夫婿

魏志倭人伝卑弥呼についての記述に

年已長大

とある。これを普通に解釈すると、既に年老いている、と考える。一般にもそう解釈されている。

ところが張明澄さんは「誤訳だらけの邪馬台国」で「長大」とは大人になった事をいう、とする。そうしてそのような「長大」の使い方を例示している。

中国語を母国語とする張明澄さんがそう言うからそうなんだろうと思う。

ならば、その後に続く「無夫婿」(夫または婿はいない)とのつながりがいい。つまり、「大人になったけれど夫はいない。」となる。

神に使える巫女のような存在だから結婚はしないのかもしれない。

或いは神と結婚するのかもしれない。

そうして、子供はできないから、卑弥呼の後を継ぐ少女をどこかから見つけなければならない。それが宗女である台与となる。

そのように解釈し想像すると卑弥呼の風景が随分見えてくる。

 

やまととももそびめの命(夜麻登登母母曾毘売命)について

前回に書いたように、日本書紀に「やまとととひももそびめの命」が崇神天皇に助言する或いは「神の言葉を伝える」場面が有ると言った。実際2回ある。詳しくは日本書紀で確かめていただきたい。古事記にはない。

日本書紀では「天皇姑倭迹々日百襲姬命」と天皇の姑になっている。しかし日本書紀でも「倭迹々日百襲姬命」は孝霊天皇の御子だから崇神天皇の御祖父の妹御となる。当時の「姑」という語は今より広い意味に使ったかもしれない。

さらに日本書紀では「迹々日百襲姬命」は三輪山の神の妻であって、神の真の姿を見て驚いた事により三輪山の神が恥じて山へ去ってしまったのを悲しみ「ほと」に箸を刺して亡くなる。その墓は日中は人が夜は神が作ったとある。

今の箸墓古墳だ。

ところで、当時、箸はあったろうか?上記の言伝えは箸そのものがなければ存在しえない。

魏志倭人伝には「手食」とあって箸を使っていないようだ。「当時箸はない」と誰かが言っていたように思い出す。遺跡から箸は出てこないだろうか?

では中国には箸はあっただろうか?特に確かめてはいないがたぶんあっただろう。でなければ、魏志倭人伝にわざわざ「手食」と書かないだろう[1]。

  [1] この点を Wikipedia "三国志" 中国版 で調べた。「箸」を三国志全部で検索したら数か所あった。「食」の字の近くにあったから、現在の箸と同じものを指している事がわかった。(2018/11/4注)

そういう事で、大和地方に箸を使う部族が移住した可能性を想像する。

箸だけでも考えてみるといろいろ面白い。

 

 

「卑弥呼」は「やまととももそびめの命」か?

天皇 古事記
崩御
神武  
綏靖  
安寧  
懿徳  
孝昭  
孝安  
孝霊  
孝元  
開化  
崇神 318 or 258
垂仁  
景行  
成務 355
仲哀 362
神功  
応神 394
仁徳 427
履中 432
反正 437
允恭 454
安康  
雄略 489
清寧  
顕宗  
仁賢  
武烈  
継体 527
安閑 535
宣化  
欽明  
敏達 584
用明 587
崇峻 592
推古 628

卑弥呼」は「やまととももそびめの命」かもしれない、とはいろんな人が言っている。例の箸墓古墳はその「やまととももそびめの命」の墓とされている。また魏志倭人伝卑弥呼のために径百歩の大きな墓を作ったとある。最近、箸墓古墳の年代が卑弥呼の年代に近付いている、とも言われている。

以上のように、例によって状況証拠は多いが、いまだ確定はしていない。

ここでは、古事記の内容を見てさらに想像をたくましくしてみたい。

古事記では「やまととももそびめの命」は孝霊天皇の御子となっている。上の天皇の年代表では、崇神天皇の御祖父である孝元天皇の妹御にあたる。その崇神天皇崩御年が318年であれば「やまとととももそびめの命」の生存されている時代は 「卑弥呼」の時代と一致しそうだ。

日本書紀では、崇神天皇が「やまとととひももそびめの命」に助言してもらう場面がいくつかある。その場合には崇神天皇と「やまとととひももそびめの命」イコール「卑弥呼」が同時代に生きていたと想像できる。そうすると崇神天皇崩御年は258年の方がもっともらしい。

という想像を働かすことができる。事実はどうだったか、今後の考古学に期待したい。例えば箸墓古墳をさらに発掘調査できれば色々なことがわかってくると思う。

 

「卑弥呼」は「ヒミコ」か

張明澄さんが著した「誤訳だらけの魏志倭人伝」に

卑弥呼」は古代中国語では、「ピェ・ミアー・ハッ」と発音するとある。

つまり「ピミハ」らしい。

特に最後の「呼」を「コ」と発音しないのは、日本人学者も悩ませたらしく、どこかの本で言い訳がましい事を書いていたのを思い出す。どの本か今は忘れてしまった。機会を見つけて確かめたい。

ともかく、張明澄さんが言うには、中国人が外国人の名前に与える当て字は発音という意味ではいい加減なものが多く、元の発音を精度よく反映するものではない、という。

多分その通りだろう。とはいえ他に資料も乏しい古代では、中国人の当て字を参考に考えるより他ない。

例えば、初回に「邪馬台」は「ヤマト」らしいと言った。

これなども、100%信じるわけでもないが、多分正しいだろう。そのあたりの信じる度合い(バランス)は個人個人で異なっていていいと思う。私の信じる度は70%くらいだ。

天皇の崩御年ー2

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前回の天皇崩御年を上図にプロットしてみた。縦軸は西暦年だ。

上記プロットで、古事記の場合はおおまかに一直線上に配置するけれど、日本書紀の場合は仁徳天皇あたりで傾きが異なる。これから、古事記に記載の崩御年は信頼できそうだ、と感じる。

上のグラフで崇神天皇崩御年(戊寅)は318年とした。これは258年の可能性もある。

私は258年であって欲しい。

というのはそうすれば卑弥呼とほぼ同世代となるから。「正歳四節をしらない」と言われた倭人が、魏の使節などの中国人から干支を習い、崇神天皇崩御の時にその干支年を語り部に教え込ませた。と考えたい。

ただ干支はすぐには倭人に定着しなかった。というのは、その後も(すくなくとも古事記においては)崩御年のわからない天皇も多い。

もうひとつ、上記グラフを神武天皇まで延長すると、西暦150年から200年となる。このくらい時期に韓半島から北九州を経て大和・河内へ天皇族の大移動があったと考えたい。