わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

卑弥呼の使者は景初2年(西暦238年)に朝貢した

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景初2年(西暦238年)1月、司馬懿と毌丘儉(かんきゅうけん)が遼東へ出発した(魏本隊)。同時に別動隊を船で密かに(魏潜軍)楽浪・帯方へ向かわせた[1]。

  [1]  又潛軍浮海收樂浪帶方之郡

密かにというのはもちろん公孫淵に知られないようにとの意味だが、同時に呉にも知られないようにとの意味もある。当時山東半島に出没する呉の船に遭遇しないように気を付けた。

公孫淵は魏本隊に対抗すべく全軍を率いて襄平城に立てこもった。しかしその隙に魏潜軍が後方の楽浪・帯方を手中に収めるとは夢にも想わなかったに違いない。

楽浪帯方の人々及び周辺の東夷諸国は、ローカルな権力者である公孫淵よりも正統な皇帝である魏の明帝を歓迎した。楽浪・帯方は平和的に迅速に「解放」されたに違いない。

倭の卑弥呼は以前から楽浪・帯方と頻繁に交易をしていた。魏による「解放」により即座に魏の洛陽に向けて使節を送る事とした。おそらく新任の帯方太守劉夏の勧めもあったろう。急なので朝貢の品は少し貧弱だが[2]、とにかく早く使節を送りたかった。

  [2]  男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈

船で魏潜軍の逆コースをたどって6月には洛陽に入った。この頃ようやく襄平城で戦闘が始まる。

魏本隊は公孫淵の軍を引付けるように時間を稼ぎながら、公孫淵の立てこもる襄平城へ向かった。そして楽浪・帯方を平定したのを見届けてから6月にようやく攻撃を開始した。

公孫淵は魏本隊が攻撃するであろう襄平城の西側の防備を固めていた。それと見た魏本隊は一旦退き、襄平城の南を迂回して東側に回って襄平城の背後を突いた。楽浪・帯方を平定して周辺に敵軍がいないと見極めての大胆な迂回だ。

襄平城は兵站を遮断され困窮して8月に落城した。

卑弥呼の使者にとって、襄平城の戦闘は渤海湾という海の向こうの出来事だった。公孫淵の軍は陸軍だから船で行く限りあまり脅威にならない。ただ呉の船には注意しただろう。

それにしても、倭の使者が戦闘の最中に来るとは、魏の明帝にとっても予想外の出来事だったろう。非常に喜んだに違いない。

詔書を与え、親魏倭王の称号を与え、印綬を仮授し、銅鏡100枚他多くの贈り物を与えた。

 

なお司馬懿という人物は「死せる孔明生ける仲達を走らす」と言われた仲達だ。蜀の諸葛孔明との多くの戦いにより戦略・戦術を鍛えられたに違いない。西暦234年に諸葛孔明がなくなりようやく蜀が脅威でなくなったから、東方の公孫淵討伐と楽浪・帯方の「解放」に注力できた。

司馬懿の孫の司馬炎が次の王朝西晋の初代皇帝になった。その司馬炎陳寿を召し抱えたから、三国志が異常に早く完成した。

 

 

卑弥呼の使者は景初2年か3年か

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魏志倭人伝では卑弥呼の使者は景初2年(西暦238年)の6月に来ている。

一方、梁書では景初3年(西暦239年)とする。いわゆる学会の通説も景初3年とする。

なぜ景初3年が多いかと言うと、その時には独立勢力として楽浪郡帯方郡を支配していた公孫淵が滅びていないからだ。滅びるのは卑弥呼の使者が来た2カ月後の8月だ。公孫淵が滅びていないのにどうして倭の使者が魏まで来ることができたか?できないだろう。

という事で、梁書はさりげなく「景初3年に公孫淵が滅びて後卑弥呼が遣使した」と記述する[1]。三国志には「景初2年」とあるのを暗に認めているような書きぶりだ。

   [1] 至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢 

    wikipedia 梁書海南諸國 東夷西北諸戎列伝

そうして、現在の学会の通説も梁書を支持する。

しかし、魏の明帝が景初3年正月に亡くなっているため、たった1年の差で風景が随分変わってくる。

景初2年なら、明帝が卑弥呼の使者を謁見する。詔書も明帝の名前で与える。

景初3年なら、8歳の新皇帝が謁見することになる。

魏志倭人伝に記載されている詔書の全文は、これはやはり(8歳の新皇帝の形式的代筆ではなく)壮年期の明帝の心が反映されているとみたい。勿論明帝の場合でも代筆ではあろうが。

当時、魏は南の呉に悩まされている。特に海上では呉に押され気味で呉の船が山東半島まで進出している。呉の東の海の向こうに倭人がいると考えられていたから、そうした倭人が呉を牽制することも期待したに違いない。

魏の明帝が「親魏倭王」の称号を卑弥呼に与えた、と考えたい。

他に同等の称号は229年に同じく明帝が大月氏の波調へ与えた「親魏大月氏王」のみらしい。

三国志の著者陳寿は、上記のような疑問が出るのも承知で景初2年にした。というのはそれが「事実」であり明帝が事実謁見したから。

 

以上、私としては魏の明帝が景初2年に卑弥呼の使者を謁見したと考えたく、公孫淵が滅びる前に倭の使者が魏の洛陽に到着できた理由を次回考える。

 

倭から洛陽へ

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魏志倭人伝によると西暦238年に卑弥呼の使者が帯方郡を経由して洛陽に到着した。

その行程はすべて船だろうか?

わからないが、海路の方が早いし距離が短い(直線距離)から、船を主に使っただろう。

まず北九州から壱岐へ渡海し、次に対馬へ渡海し、さらに韓半島へ渡海する。

韓半島の沿岸沿いに、西に向かい、そうして北に方向転換して、帯方郡に着く。

帯方郡の太守劉夏がこれを迎えて、官吏を付けて洛陽に向かわせる[1]。

   [1] 太守劉夏遣吏將送詣京都

魏の官吏は面子にかけて野蛮人の船に便乗することはできないだろうから、おそらく帯方郡からは魏の船を使った。

遼東半島の南岸に沿って西に向かい、その西端から渡海して山東半島に行く。

遼東半島から山東半島までは102kmもあって一気に渡海はできないけれど、幸いなことに両半島の間に島がいくつかある。遼東半島から最初の島までが41kmだから何とか1日で行ける。その後は島が列を成しているから島伝いに行けて、山東半島に到着する。

山東半島から洛陽までは船で黄河を遡るか、陸路を使う。

唐六典[2]では

   [2] Wikipedia 「唐六典」

荷物を積んだ船で黄河を遡る場合は1日に30里。

陸路の歩きでは1日に50里。

とあり陸路が早いから、洛陽へ行く時は陸路を使ったかもしれない。

また、船で黄河を下るときは1日150里。

とあって、洛陽からの帰りは船を使って楽しただろう。

ところで、上の陸路の歩きでの1日の行程について、当時の1里を400mとして

1日50里=20km

となる。歩きの時速4kmとして正味5時間分だ。ちょっと少ないような感じもするが、当時の整備できていない道で軍などの多人数を動かす場合はこんなものかもしれない。

以上、当時の船の実力から見て、海を渡るのはできるだけ避けたと思う。陸地に沿って、あるいは島伝いに航路を取り、夜は港に入って船が流されないようにする。それが時間がかかるけれど安全確実な方法だ。

「干支」と西暦年対応表

「干支」は中国流通し年号だ。しかしわかりづらい。そこで一覧表を示す。

今年2018年は戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)であって来年2019年は己亥(つちのとい、きがい)だ。

古い所では高句麗好太王碑に出てくる辛卯(かのとう、しんぼう)年は西暦391年になる。

古事記に記す崇神天皇崩御年は戊寅(つちのえとら、ぼいん)だ。西暦では258年か318年だ。

西暦1年は辛酉(かのととり、しんゆう)となる

ところで西暦1年の前年は紀元前1年だ。西暦0年は存在しない。建物で1階の下は地下1階になるようなものか。イギリスではGroundFloor(0階)があってイギリス流1階は日本の2階になる。数学的にはこちらが合理的だ。

干支 西暦年   西暦年
BC57 4 64 124 184 244 304 364   1924 1984
BC56 5 65 125 185 245 305 365   1925 1985
BC55 6 66 126 186 246 306 366   1926 1986
BC54 7 67 127 187 247 307 367   1927 1987
BC53 8 68 128 188 248 308 368   1928 1988
BC52 9 69 129 189 249 309 369   1929 1989
BC51 10 70 130 190 250 310 370   1930 1990
BC50 11 71 131 191 251 311 371   1931 1991
BC49 12 72 132 192 252 312 372   1932 1992
BC48 13 73 133 193 253 313 373   1933 1993
BC47 14 74 134 194 254 314 374   1934 1994
BC46 15 75 135 195 255 315 375   1935 1995
BC45 16 76 136 196 256 316 376   1936 1996
BC44 17 77 137 197 257 317 377   1937 1997
BC43 18 78 138 198 258 318 378   1938 1998
BC42 19 79 139 199 259 319 379   1939 1999
BC41 20 80 140 200 260 320 380   1940 2000
BC40 21 81 141 201 261 321 381   1941 2001
BC39 22 82 142 202 262 322 382   1942 2002
BC38 23 83 143 203 263 323 383   1943 2003
BC37 24 84 144 204 264 324 384   1944 2004
BC36 25 85 145 205 265 325 385   1945 2005
BC35 26 86 146 206 266 326 386   1946 2006
BC34 27 87 147 207 267 327 387   1947 2007
BC33 28 88 148 208 268 328 388   1948 2008
BC32 29 89 149 209 269 329 389   1949 2009
BC31 30 90 150 210 270 330 390   1950 2010
BC30 31 91 151 211 271 331 391   1951 2011
BC29 32 92 152 212 272 332 392   1952 2012
BC28 33 93 153 213 273 333 393   1953 2013
BC27 34 94 154 214 274 334 394   1954 2014
BC26 35 95 155 215 275 335 395   1955 2015
BC25 36 96 156 216 276 336 396   1956 2016
BC24 37 97 157 217 277 337 397   1957 2017
BC23 38 98 158 218 278 338 398   1958 2018
BC22 39 99 159 219 279 339 399   1959 2019
BC21 40 100 160 220 280 340 400   1960 2020
BC20 41 101 161 221 281 341 401   1961 2021
BC19 42 102 162 222 282 342 402   1962 2022
BC18 43 103 163 223 283 343 403   1963 2023
BC17 44 104 164 224 284 344 404   1964 2024
BC16 45 105 165 225 285 345 405   1965 2025
BC15 46 106 166 226 286 346 406   1966 2026
BC14 47 107 167 227 287 347 407   1967 2027
BC13 48 108 168 228 288 348 408   1968 2028
BC12 49 109 169 229 289 349 409   1969 2029
BC11 50 110 170 230 290 350 410   1970 2030
BC10 51 111 171 231 291 351 411   1971 2031
BC9 52 112 172 232 292 352 412   1972 2032
BC8 53 113 173 233 293 353 413   1973 2033
BC7 54 114 174 234 294 354 414   1974 2034
BC6 55 115 175 235 295 355 415   1975 2035
BC5 56 116 176 236 296 356 416   1976 2036
BC4 57 117 177 237 297 357 417   1977 2037
BC3 58 118 178 238 298 358 418   1978 2038
BC2 59 119 179 239 299 359 419   1979 2039
BC1 60 120 180 240 300 360 420   1980 2040
1 61 121 181 241 301 361 421   1981 2041
2 62 122 182 242 302 362 422   1982 2042
3 63 123 183 243 303 363 423   1983 2043

韓半島が見えるか?

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古事記日本書紀で「海を渡って新羅を征服せよ」との神のお告げに対し、仲哀天皇は「海の向こうにそんな国は見えないではないか」と反対した。神に逆らった仲哀天皇はあえなくお亡くなりになった。

羅針盤もまともな時計もない古代の航海において、目的地が見えるという事が必須だったから、仲哀天皇の反対は技術的には理にかなっている。

 

そこで、どこまで遠くが見えるか理論的に考えてみる。

まず、海が真平なら、どんなに遠くの島でも(視力が良ければ)見えるはずだ。という事は逆に言うと、地球が丸いから遠くは見えなくなる。

 

理論的にどこまで見えるかは、上図に則って計算できる。上図にある式は、ピタゴラスの定理を用いて、地球の半径Rが山の高さHや人の眼の高さ(~身長)hに比べて非常に大きい場合の近似式として求められる。数学に興味のある人はトライして欲しい。

地球の半径は6400km(R=6400km)だ。

上図の式から、身長1メートル60センチ(h=1.6m=0.0016km)の人が見る水平線(H=0m =0km)はたったの4.5kmでしかない。我々は海岸で「海は広いな大きいな」などと考えるが実はたった半径4.5kmの円盤形の海面しか見ていない。

ただしそこに浮かぶ船は高さがあるからもっと遠くから見える。見えてないのは船のまわりの海面だ。

では、次に、対馬沿岸から韓半島が見えるか上記式で計算する。釜山では金井山という801.5mの山がある。この山は106km先から見えるから50-60kmの距離の対馬沿岸から十分見える。

逆に韓半島から対馬はどうか。対馬の最高点が648.5mで、見える距離は96kmだからこれも見える範囲内だ。

むしろ対馬から壱岐が見えるか問題だ。壱岐の最高点が212.8mだから見える範囲は57km以内だ。ぎりぎり見えるかどうかだ。一応範囲内だから見えると思う。

あと航海術の本に書いてあったが、陸地のある上空には上昇気流による雲が立つらしい。そうした雲によっても目的地を見失わないようにできる。

壱岐から九州へは距離も短いし、九州に山は多いから問題なく見えるだろう。

ここで仲哀天皇の「韓半島がみえるか」という御質問に立ち返る。釜山と山口県が最短で177kmだ。釜山と九州よりも少し近い。先の釜山の山は106kmの範囲でしか見えないから、山口県の沿岸からは見えない。

しかし、晴れた日の見通しのいい日に、山口県の500mの山に登れば(つまりh=500mとする)釜山の山のてっぺんがかすかに見える計算になる。

というわけで、普通には見えない。

しかし対馬まで行けば見える。日本書紀には、対馬の人が神功皇后韓半島が見えると報告している。その報告があって初めて神功皇后新羅へ向かう事ができた。

 

韓半島から倭へ;3ステップの渡海

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図のように魏の使節は3つの海を渡って、韓半島から倭の本拠地へ来た。魏志倭人伝ではそれぞれを「渡海千里」と表現する。

実際にGoogleマップで最短距離を測るとそれぞれ、51km、49km、21kmとなる。港から港ではプラス数キロ増えるだろう。

以前に言ったように、人力で船を漕ぐと時速4-5km位しか出ない。従って韓半島から対馬まで12-15時間かかる計算になる。まあ帆みたいなものも使って少しは風の力を借りたとして夜になる前になんとか対馬に着けただろう。

夜になると目的地が見えないからどちらに向かっているかわからない。おそらく蛇行してしまってとんでもない方角へ向かってしまう。だから夜になる前に到着することが必須だ。

渡海を決行するには色々な条件が整わねばならない。例えば、風向き、潮の満ち引き、目的地が見えるかどうか、など。それらを、夜が明けると同時に、考慮し、決断し、出航する。条件が整わなければいつまでも待つこととなる。

ところで韓半島から対馬は見えるだろうか?

結論は見える。以前私は川越に住んでいてそこから筑波山雄大に見えた。筑波山は850mの低い山だがそれでも独立峰だから55kmも離れた川越からも大きく見える。対馬も海の中の言ってみれば独立峰だ。対馬には高さ600mの山があり、筑波山の肩のあたりの高さだから十分見える。ただし、天候が良ければの話だ。それから夏には見えにくい日が多くなる。

では逆に対馬から韓半島は見えるか?

これも見える。釜山近郊に800mの山があるから船からでも見える。また朝鮮戦争北朝鮮の軍が釜山に迫ったときにはその照明弾が対馬から見えたという証言を1年ほど前のテレビでやっていた。照明弾の高さはわからないがまあそんなに高度はないだろう。

韓半島から対馬に到着すると、次は対馬の島沿いに南下する。そして対馬の南端辺りから壱岐へ2度目の渡海を決行する。これも1度目と同じくらい難度が高い。

壱岐にはそれほど高い山はないけれど、見える範囲内と言える。

3度目の渡海は壱岐から九州であって距離が短いけれど、海を渡る点では変わらず気が抜けない。一旦霧などで目的地を見失ってしまうと漂流して生命が危ない。

以上、3ステップの渡海の後ようやく倭の本拠地に着いた。実際に渡海した魏の使節にとっては皆大変な航海であって、それを心理的距離感として一千里とした。

三国史記に卑弥呼登場

朝鮮の新羅高句麗百済三国時代の歴史を記した「三国史記」の新羅本記に卑弥呼が登場する。

173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)[1]

  [1] Wikipedia 「倭・倭人関係の朝鮮文献」 から引用した。

西暦173年に倭の女王卑弥呼の使者が新羅へ来た、と朝鮮の歴史書は記す。

どうしてこのような記述があるだろう?

中国の三国志魏志倭人伝では、西暦238年に卑弥呼が魏に使節を送った。

その65年前に同一人物が韓の新羅へ使者を送っている、のはどうだろう、考えにくいのでは。

干支を60年間違えたとして西暦233年に卑弥呼新羅に使者を送ったのならありそうだ。

そもそも、西暦173年の段階で新羅は存在したのか?

魏志倭人伝は実は三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝の部分に過ぎず、その東夷伝の韓の条の弁辰24か国の一つの斯盧國が新羅らしい。

従って、新羅という国は卑弥呼の時代に存在して、倭と交流とか戦いとかしていたらしい。面白いのは倭が戦いを仕掛けるのは常に春か夏だ。つまりその季節に対馬海峡を渡った。逆に冬とかで北風の激しい時はとても渡海できない。

ところで三国史記が完成したのは高麗の時代の1145年だ。実に卑弥呼の時代から900年も経っている。

著者は、残存した朝鮮の歴史資料やら中国の史書やら、あるいは日本の資料やらをかき集めて三国史記を構成したに違いない。

卑弥呼」という中国と同一の漢字を使っているのも三国志等から引用した事を示していると思う。

卑弥呼の使者が来た」とわざわざ三国史記に挿入したのはなぜか?

実際に使節が来たか?

それとも、新羅の優位性を主張したかったのか?

なぜ西暦173年にしたか?

想像力を働かせても理由がわからない。腑に落ちない、という事でとりあえず終わる。