わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

崇神天皇:ミマキイリヒコイニエの命

崇神天皇という漢語的言い方は後世の創作であって、

古事記日本書紀では「ミマキイリヒコイニエの命」という。

音に出して読んでみると、ミマキ-イリヒコ-イニエ と分かれそうだ。

今回「イリヒコ」に着目する。

「ヒコ」は「彦」だろう。そうすると「イリヒコ」は「入り彦」であってお婿さんとして入った、と考えたくなるのが自然だ。実際、上垣内憲一さんは著書「倭人と韓人」でそう言っている[1]。

 [1] 上垣内憲一著「倭人と韓人」講談社学術文庫(2003)

さらに崇神天皇の皇后はシンプルに「ミマキヒメ」だ。まず「ミマキヒメ」という皇后の名前があってその婿だから「ミマキイリヒコ」と言ったと想像する。後ろの「イニエ」が崇神天皇の本名か。

しかし、そのように考える人を他に知らない。なぜだろう?

次の天皇垂仁天皇であって、「イクメイリヒコイサチの命」という。

やはり「イリヒコ」とある。しかし、皇后の名前は「イクメヒメ」ではないから、物事はそう単純ではない。

ともかく、この頃は女系家族であって、男性が女性の家へ入り婿として入った、と想像したい。

あるいは、味方につけたい部族が女系家族だったから、そこへ入る事とした。

因みにその後「イリヒコ」とつく天皇の名前は見当たらないようだ。

倭の五王

卑弥呼の時代から150年程経つと倭の五王が中国の史書に登場する。

允恭天皇崩御年を加えることにより倭の五王との関連性が見やすくなったから、ここで、古事記崩御年と中国史書に登場する倭の五王の年代を並べてみよう。

対応する天皇は、応神→仁徳→履中→反正→允恭→安康→雄略 の各々の天皇だ。

天皇 古事記崩御 倭の使節朝貢した年 国史書記載の倭王 中国王朝
応神 394      
    413年 東晋
    421年
    425年
仁徳 427      
    430年
履中 432      
反正 437(7月没)      
    438年
    443年
    451年
允恭 454      
    460年
  462年
安康      
    477年
    478年
    479年 南斉
雄略 489      
    502年

まず、応神天皇は最初の朝貢(413年)の前に崩御されているから倭の五王には該当しない。

上記表から、歴代の天皇倭の五王を割当てると

仁徳⇒讃

履中

反正

允恭⇒珍、済

安康⇒興

雄略⇒武

となって允恭天皇が珍と済の両方となる他は大体それらしくなる。

ところで珍の朝貢(438年)の前年7月に反正天皇崩御されているから、実はこの朝貢反正天皇によるものとしたい。朝貢の船が出た後で反正天皇崩御された。朝貢の船は倭に戻った時初めて反正天皇崩御を知る。

そうすると以下になる。

仁徳⇒讃

履中

反正⇒珍

允恭⇒済

安康⇒興

雄略⇒武

讃が仁徳天皇であって、珍が反正天皇なら、親子関係のはずだが、宋書は、珍を讃の弟と言う。辻褄が合わない。

これはたぶん通訳時のコミュニケーションミスだろう。

倭の使者が「現王は前王履中天皇の弟だ。」と言ったのを、中国側が前王を讃と間違って解釈した。本当は前々王が讃だ。

前王履中天皇の時も一度朝貢したが、この時の倭王の名前は記載がない。記載がないという事で、前々王の讃と中国側は解釈した。つまり中国側は仁徳天皇の次が反正天皇だと解釈してしまった。

次に稲荷山古墳から出土した刀の銘から雄略天皇が471年には天皇である事がわかる。従って477年、478年、479年の朝貢雄略天皇だ。

ところでこのように毎年朝貢するものだろうか?少なくとも479年は南斉の王朝樹立の祝賀会だから、雄略天皇が積極的に働きかけたものではなさそうだ。

502年の武の朝貢は明らかにおかしい。雄略天皇は489年に既に崩御されている。

502年は梁の武帝の王朝樹立に伴う祝賀会であって武を鎮東大将軍に進号させている。

しかしこの頃には山東半島が北方民族に占領されて陸地沿いには行きづらいから、倭の使節ははるばる中国南部に押込められた梁まで行っていないと思う。倭の側から見れば途中の陸地沿いの海路で苦労してまで、梁に朝貢する価値がない。

使節がいないから当時の倭王の名を知ることができずに昔の名前、武を使った。

とはいえ、全く倭人がいないでは称号を与えるのに恰好がつかないからその辺にいる倭人を代理に使った。その貧相な倭人の姿が梁の職貢図として現代に残ってしまった[1][2]。

   [1] Wikipedia 職貢図 にその絵がある。

   [2] 鈴木靖民、金子修一「梁職貢図と東部ユーラシア世界」(2014)

 

天皇の崩御年-3

古事記には15の天皇崩御年が干支年で記載されている。

なぜこの15天皇のみか?

崩御年の記載は初めから古事記にあったのか?

後に付加えたものではないか?

等々の疑問が残る。

一方、日本書紀にはすべての天皇の即位年の記載があるけれども、初期の天皇の在位年数が異常に長い。

また古事記の方が日本書紀より早く成立しているから、それだけ古い「語り」を反映しているに違いない。

ということで、古事記崩御年を事実と考えたい。

学者にも古事記崩御年に着目した人がいたらしい。

中公新書天皇誕生」遠山三都男著(2001)からの孫引きだが、水野祐著「日本古代王朝史論序説」(小宮山書店1954, 新版1992早稲田出版)では、この崩御年のある15の天皇のみが実在したとするらしい。

さすがに、15天皇のみが実在とまでは言い切れないと思う。古事記の語りの流れを尊重したい。

 

ところで私の過去の「天皇崩御年」の記事で允恭天皇崩御年を見落としていた事に、今回気付いた。後ほど訂正する。

 

 

古事記に出る馬

卑弥呼の時代に馬はいなかった。

魏志倭人伝に「倭の地には馬も牛もいない」とある。

一方、古墳時代には馬もいたし、鞍もあって馬に乗る事もできた。

では、いつ頃馬が登場するか?

普通には応神天皇の頃と言われている。古事記では応神天皇崩御年は干支で言うと甲午、西暦では394年だ。そうすると卑弥呼の時代つまり西暦240年頃から150年後には馬が入っていたとなる。

考古学的にも妥当な頃とされる。

しかし、面白いことがある。古事記の神話時代に馬が登場する。

スサノオノミコトが斑馬を逆剥ぎにして機織り小屋にぶち込んでいるのだ。おかげで機織りの女が亡くなっている。そのあまりの乱暴さに姉のアマテラスオオミノカミが岩屋にお隠れになり、天岩戸の神話につながる。

馬のいない社会の言伝えにどうして馬が登場できるのか?

これは、古事記の神話のこの部分が馬を知っていた民族(必ずしも騎馬民族でなくてもいい)に起源がある事を示す。

もちろん、古事記の神話は馬を知って後に創作したものだという人もいるだろう。それも否定できない。

しかし、古事記は、長年月に亘って語り部によって語り継がれてきた事を感じさせる美しい響きがある。そしてそれは馬を知る民族の神話だった。

馬を知る民族は、韓半島から北九州へ渡海するとき馬を連れてくることができなかった。なぜなら馬を渡海させるほどの大きな船がなかったからだ。

 

其地無牛馬

魏志倭人伝

其地無牛馬 (倭の地には牛も馬もいない)

とある。卑弥呼の時代に倭の地(北九州)には牛や馬はいなかった、と三国志の著者陳寿は断じている。

今は馬だけ考える。

本当に馬はいなかったのか?

どうもいなかったらしい。当時の遺跡で馬の骨がみつかった事があるらしいが、どうも後世の馬の骨が混ざりこんだらしい。馬はいなかったらしい。

では、海の向こうの韓半島はどうか?

魏志倭人伝の前に韓伝がある。そこに

不知乘牛馬  (牛や馬に乗る事を知らない)

とある。またその少し後の弁辰の所に

乘駕牛馬  (牛や馬の引く駕篭に乗る、の意味か?)

ともある。どうやら馬に乗る事はしないが、馬自体はいたようだ。

韓半島に馬はいて倭の地にはいなかったとはどうしてか?

ただ単に偶然そうだった可能性もある。

しかし、これは馬を運べる船がなかった、と考えたい。韓半島から北九州に進出した天皇族は当然に馬を運びたかった。しかし、運べるだけの大きな船がなかった。

馬を運ぶにはどのくらいの大きさの船がいるか?

矢切の渡しというのが今でも寅さんの柴又と千葉県市川市とを結んでいる。船頭一人で漕げる小さな船だが、馬も渡したらしい。人はいくら、馬はいくらと決まっていた。

しかし、矢切の渡しの船ではおそらく外洋の波の高いところでは馬は無理だろう。まず揺れる。そして馬はいつでも立っているからバランスを崩すに違いない。まさか馬を縛って十何時間も船底に置いておくわけにもいかない。

という事で、馬を乗せて対馬海峡を渡れるような船は当時まだなかった、と考える。

従って、倭の地には馬が、まだ、いなかった。

ただこれは時間の問題だった。というのは当時の呉の国では80頭もの馬を乗せるような大きな船があった。三国志呉主伝に高句麗の王が数百匹の馬を献上したが、船が小さくて80匹を持って帰った、とある。

そうした大きな船を倭人も作る事ができるのはもう少し後になる。

そうして馬が倭に入った時から古墳文化が一変する。

 

 

 

 

再び人力の船

前に、人力だとせいぜい時速4-5kmしか出せないと言った。

本当にそうだろうか?

私が時速4-5kmと言ったのは先に示した学校の先生方の貴重な実験による[1]。

[1] 「縄文の丸木舟日本海を渡る : 縄文時代の再現に挑んだ教師達の記録 からむし会編」

隠岐から島根まで56kmを丸木舟で時速4.4kmで人力で(帆無しで)漕ぎ切った。ただし漕ぎ手は何度か交代した。

そこで、他の例を調べてみる。

Wikipedia ”ボートの世界記録”では2000mが6分前後だ。そうすると一時間では10倍の20kmつまり時速20kmになる。しかしオリンピックで2000mを漕いだ人をみると、もうぶっ倒れそうな位に消耗している。その消耗度はマラソン以上に見える。時速20kmのスピードで漕げるのは6分程度でしかない。10時間とかはとても無理だ。

同じくwikipedia "アーネスト・シャクルトン”を見ると、南極大陸から9mの救命ボートでの脱出がある。この場合1500kmを17日で漕ぎ切っている。一日90km位だ。交代で漕ぎ続けたようなので、24時間漕いだとして時速4km位か。

それにしても常に暴風雨に曝されている南氷洋をよくも漕ぎ切ったものだ。9m程度の小さなボートでも転覆しない程度の安定性があるのだ。島に近づくと波が荒くて、目的地のサウスジョージア島に上陸する時が最も大変だったようだ。

もう一つ、名前は今思い出せないが、一人で太平洋をボートで横断した人がいる。ボートは最新のグラスファイバー製の軽いものだ。楽に漕げるような仕組みもしてある。この場合は一日平均60km進んだ。失礼ながら、他にすることもないだろうから一日15時間漕いでいたとすると時速4kmになる。一日12時間なら時速5kmになる。

この人は確か、目的地のオーストラリアに上陸しようとしたが、波が荒くて危険なので断念した[2]。

  [2] アレックス・ベリーニという人だった。以下のHPに手漕ぎボートで太平洋横断とある。  http://www.faust-ag.jp/soul/adventure/soul017-1.php

一般的に、陸地が近付くと海が浅くなって、波が高くなる。だから海底まで4000mもあるような太平洋の真っただ中の方が波の高さが低い。というような話を津波について聞いた。津波でなくとも普通の波でも同様だろう、と思っているが確かめたわけではない。

ちょっと脱線した。

以上より、どうも人力では、時速4km位が長時間漕げる限度のように見える。

 

倭人の船に帆があるか?

卑弥呼の時代に倭人韓半島と北九州の間で交易していた、と魏志倭人伝にある。

その船に帆はあっただろうか?

はっきりとはわからない。

当時の墓の石の壁に帆らしい柱が書いてあったりするらしい。

日本書紀には神功皇后新羅征伐に行ったときに帆のある船を使ったとある。

古事記では「帆」の語がない。

三国志では呉の船は帆を持っていたとある。

そうして、昨日の古代ギリシャ船は帆を揚げるマストを持っている。これが卑弥呼の時代から650年前の地中海の話だ。

そうした状況から、卑弥呼の時代に倭人は既に帆のある船を使っていたと想像する。

そうすると韓半島と北九州の交易はずいぶん楽になる。

 

もしも帆がなければ人力しかない。そうした場合は時速4-5kmつまり歩く位のスピードしか出ない。ボートを漕いでみるとよくわかる。

そうすると、韓半島から対馬まで最短でも60kmだから12から15時間かかる。これだけの時間漕ぎ続けるのは、かなりつらいだろう。

というわけで、帆を使って少し楽したに違いない。帆といっても後ろから風を受けて前に進む程度のものだろうから、風向きがいい時しか出航できないだろう。