わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

不知正歲四節

三国志には注が点在する。倭人伝のなかに以下の注がある。

魏略曰、其俗不知正歲四節、但計春耕秋收爲年紀

魏略によれば、倭人は「正歲四節」を知らない、ただ春に耕し秋に収穫することをもって「年紀」を計算する。

これはどういう意味だろうか?歳(とし)とか四節(はる・なつ・あき・ふゆ)の概念がないのだろうか?「とし」「はる」「なつ」「あき」「ふゆ」といった言葉もなかったのだろうか?おそらくそうした言葉つまり概念は倭人にもあったと思う。ただ、暦(カレンダー)がなかった、と解釈したい。一年が365日ともわかっていなかった、かもしれない。春分とか秋分とか、夏至冬至もなかった。温暖な地域だから、少々時期がずれて種まきしても(大体)稲が実っただろう。だから、春に耕し種をまき、秋に収穫することを、一サイクルとして、一年(ひととせ)としていたのだろう。

たとえば次のような会話を想像する。

「この船はいつ作ったか?」

「みっつまえの収穫の後に作った」

「あなたの親はいつ亡くなったか?」

「いつつまえの種まきのときだ」

といった会話が想像される。

しかし次のような会話は想像できるだろうか?

「あなたの歳はいくつか?」

「みそぢまりむつとせ(36歳)」

おそらく上記のような会話は当時は成立しない。

現代の我々でも自分の歳は年々変化するから覚えづらい。私の場合は西暦1950年生まれだから「今年(2018年)の歳」は68歳だと計算する。もしも西暦がなかったら、昭和と平成から計算する。もしも昭和とか平成という元号もなくなったら、どうやって私の歳はわかるだろうか?

当時の倭人は、当たり前だが、西暦も元号ももたない。つまり正歲四節を知らない、という事になる。

中国には、元号があった。また西暦のような通し年として干支(えと)があった。