わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

楽浪郡がピョンヤン近郊にあった証拠は?

古代日本に関する文字記録はほとんどが中国史書であり、そこでは倭人は中国領の東端にある楽浪(+帯方)の海中に居る。

そこで、楽浪がどこにあるかが問題となる。

本やネットで調べると楽浪郡の本部(郡治)はピョンヤン市にあったと記されている。

それをそのまま鵜呑みにしてもいいのだが、一応科学的に検討して自分で納得したいから調べた。

1)墓からみつかった木簡[1]

[1] 岩波新書「木簡から古代がみえる」の第4章「東アジアの木簡文化」(李成市著)

平壌市西南、「楽浪区域統一街」の建設現場の貞柏洞(チェンベクトン)364号墳から木簡がみつかった。(当時、まだ紙はなく木の板に文字を書いた。それを木簡という。)

そこにはなんと「楽浪郡初元四年県別戸口簿」とある。

初元四年とは紀元前45年だから前漢の時代だ。そうして、当時楽浪郡は25県から構成されている(漢書地理志楽浪郡に25の県名が記載されている)が、その25県の戸数と人口が記載されているという。

総計で25県の初元4年(紀元前45年)の戸数は4万3251戸、人口は28万0361人だったとの事だ。

前漢の時代には毎年戸数と人口を調査したらしい。このような調査の記録は中国にも残っていない。

なお、これらの木簡は1990年代初めに見つかったらしい。当然発見したのは北朝鮮の学者だ。しかし正式な報告書はなく、写真だけが2008年に公開された。李成市さんか他の誰かがそれを読み解いたのだろう。

以上、楽浪郡を構成する25県のすべての戸数・人口が記されているという事は発見場所に楽浪郡の本部(郡治)があった事を示す。

ピョンヤン楽浪郡本部(郡治)があった。

 

と、ここで終わってしまってもかまわないけれど、上記にはいろいろな情報が詰まっていて面白いから続ける。

2)楽浪郡の人口変化

まず、木簡記録にも25県とあるらしいから漢書地理志の25県と整合する。

総戸数・総人口について、漢書地理志、後漢書地理志、晋書地理志と共に記載する。

木簡記録   初元4年(紀元前45年)  4万3251戸    28万0361人

漢書地理志  元始2年(西暦2年)    6万2812戸    40万6748人

後漢書地理志 安帝?(西暦107-125)   6万1492戸    25万7050人

晋書地理志  太康元年(西暦280)    8600戸(楽浪+帯方) ? 

木簡記録の頃(紀元前45年)から約50年は政治が安定していて人口も増えたようだ。自然増か人の移動によるかはわからない。後漢の後半になるとちょっと陰りが出てきて楽浪の人口も減っていった。公孫氏の支配下で楽浪の一部が分離されて帯方郡となった。後漢末期からの政治の不安定のため晋の頃の支配下の戸数は楽浪郡帯方郡合計しても8600戸にまで減ってしまった。晋書には戸数のみ記載があり人口は記載がない。

なお晋書の記載する戸数は、晋が支配する戸数であって、支配が及ばないいわゆる「無法者」の方が大多数を占めていたと思う。

3)楽浪郡は中国の一部だった

前漢の時代に、中国全土で毎年戸数・人口調査、つまり毎年国勢調査を行っていたらしい。これは大変な事だ。今でも、中国の国勢調査は10年に一度だ。日本では4年に一度だ。ところが2000年くらい前の前漢の時代に毎年国勢調査がなされていたという事実に驚く。国勢調査をするのは当然ながら役人=官僚だ。税金は国勢調査の結果をふまえて決めていただろう。

このような官僚が統治する国家と、司馬遷史記が記述する前漢創始者劉邦という人物像とはどうしても結びつかない。

それはともかく、前漢とは儒教学者が官僚として人民を支配する国家であり、楽浪郡もその一部だった。

そうして、楽浪郡の役人も字を書き読むことができるエリートであり、毎年県から上がってくる戸数・人口の報告を受けて集計し(計算もできなければならない。算盤はあっただろうか?)、木簡に記録しただろう。

それは、地方の小役人にとってはエリートの仕事であり、自らの存在の証として墓にまでそれらの木簡を持ち込むよう指示したに違いない。

今、役所の書類をお墓に持込むような人間はいない。

そのようにして楽浪という辺境の小役人の墓に木簡が残され、歴史の証拠となった。

4)北朝鮮楽浪郡を認めるか?

これからは現代の話だ。

Wikipedia楽浪郡」の記載を見ると、どうも北朝鮮の学者は、朝鮮半島の一部でも中国の支配下にあったのが我慢ならないようだ。

私などは、朝鮮が中国に飲み込まれなかったことに感心する。それどころか、高句麗新羅がよくもまあ圧倒的に強大な中国の支配を押し返して独立できた、という点を誇っていいのではないだろうか。

ともかく、彼らは楽浪郡朝鮮半島の外にあり、ピョンヤンにあったのは「楽浪国」という別のものだったと主張しているらしい。

そうした主張に対し、上記木簡などは実に不都合な反証となる。

1990年代に木簡が発見されてから正式の報告書が出てこない理由はその辺にあるかもしれない。

ただ、2008年に写真が公開されたという事から、北朝鮮の学者としての良心を感じる。

グーグルマップで「楽浪区域」と入力すると、ピョンヤン市街を流れる大同江南岸地域が行政区として表示される。つまり国として「楽浪」がピョンヤンにあった事は認めている。

ちなみに「楽浪区域統一街」は、よく北朝鮮を紹介するテレビに出てくる高層住宅の立ち並ぶいわば北朝鮮のショーウィンドウのような場所らしい。