わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

倭の地に馬はいない

下記記事中にある「乗駕牛馬」の駕は「現代中国語では、「駕」に、牛馬に農具や車をつけて引かせる、また御する、操縦するという意味があります。」というありがたいコメントを頂いた。

そこで、馬について再度考える。
aki104.hatenablog.com

三国志烏丸鮮卑東夷傳全体(魏志倭人伝も含む)を読むと馬について多くの記事がある。

倭の地:馬はいない。牛もいない。

韓の地:牛馬に農具や車をつけて引かせた。馬自体に乗る事はしない。

高句麗:馬に乗る。馬は小さい。国王の宮は馬に乗っての射撃がうまい。

扶余:名馬の産地。私見だがこの「名馬」とは戦闘用の馬の意味だろう。

匈奴:言わずと知れた遊牧騎馬民族

 

このように、匈奴から倭の地までに馬の使用法についての見事なグラデュエーションが記載されている。

当時の馬は現代の戦車のような最新兵器だった。だから三国志の著者陳寿さんは馬についてかなり気にしていたと思う。馬の使い方によって文化程度を計っていたようにも見える。

匈奴では完璧に馬を兵器として使いこなしていた。約千年後のモンゴルの戦い方で知った事だが馬というのは割と疲労しやすいから、戦時には一人の戦士が10匹近くの馬を用意して次々取替えたそうだ。おそらく匈奴もそうした馬の使い方をしただろう。人口の割に広大な放牧地があって一人当たり10匹位の馬は養える環境があった。

扶余は名馬の産地だ。たぶん馬を養う草が豊富だったろう。

高句麗になると馬が小さくてしょぼい。しかし高句麗の国王がやったように騎馬して戦いに使う事は知っていた。

韓の地には馬がいた。運送・農耕に重要な労力だったけれど、まだ騎馬することはない。

そして、倭の地には馬はいない。

なぜ倭の地に馬がいないか?

おそらく、馬をのせて対馬海峡を渡るような大きな船も航海技術もなかった、というような想像を上記記事で書いた。今はますますそう確信する。

牛についても同様だ。

当時の船については次回考える。