邪馬台国はどこにあったか?という未解決の問題について、現状では場所を特定できる程の資料はない。
というのが、バランスのとれた考えだと思う。
といっても、バランスがとれた考えが常に正しいわけでもない。
声高に「邪馬台国はここだ。」という人の論拠にも傾聴に値するものもあるけれども、それで場所が特定できるわけではない。
「邪馬台」は当時の中国語では「ヤマト」と読むらしい。
と言った時点でどうも邪馬台国は今の大和平野にあったのではないかと普通に想像できる。
ところが、どうもそう単純ではない。邪馬台国が九州にあったとする理由もいろいろ出てくる。
第一は、もちろん邪馬台国への行程だ。魏志倭人伝では南へどんどん行って邪馬台国へ到る。大和地方だったら東へ行くはずだ。
第二に、魏志倭人伝の風景は全体に九州の海の民の風景だ。「風景」というあいまいな言葉で申し訳ないが魏志倭人伝を読む人はわかってくれるだろう。例えば顔に入れ墨するなどの風習だ。
第三に、鉄器などの分布をみると九州の文化程度が断然高い。邪馬台国も文化程度の高い所にあったと考えるのが自然だ。
第四に、古事記・日本書紀に邪馬台国やら卑弥呼、台与に該当する記載がない。つまり邪馬台国は大和朝廷の歴史から外れている。日本書紀に卑弥呼を神功皇后に比定する記述があるけれど、年代を120年(干支で二回り)間違えるなど信頼できる記述ではない。
とはいっても、「邪馬台」=「ヤマト」はそのシンプルさが捨てがたい。
ヤマト東漸説というのもある。はじめヤマト民族は九州にいた。それが大和地方へ移った、というものだ。
古事記・日本書紀で神武天皇が九州から出て畿内を征服する。それに合致するではないか。
というわけで、邪馬台国はどこにあったかも(未だ)わからない、という居心地の悪い状態だけれども、一面おもしろいところにいる。