わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

「上海博物館展」(2004)に「三角縁神獣鏡」が展示されていた???

「古代鏡製作」http://inoues.net/study/takaida.html

には随分啓発された。同じHPにある

三角縁神獣鏡の謎」http://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html

も素晴らしい。

そこに実に目をむく記述がある。

なんと、「上海博物館展」(2004)に「張氏車騎神獣画像鏡」という名前で「三角縁神獣鏡」が展示されていた、というのだ。

HPの記載をそのまま引用する。

”ここに1点、私の目を引いた鏡があった。以下に紹介する「張氏車騎神獣画像鏡」である。初め見たとき驚いてしまった。「これは、三角縁神獣鏡じゃないのか!」 大きさと言い、神と獣の神仙画像と言い、何よりも、周縁部の切り口は正(まさ)しく三角形に見える。中国では三角縁神獣鏡は出土していないはずではないか。これは何だろう。”
そしてHPの作者は担当の学芸員に直接質問した、
”会話の中では、「三角縁神獣鏡」とは書けないので「張氏作」としました、というような事も言っていた。”
とのことだ。
興味ある読者は上記HPに鏡の写真が5枚もあるからじっくり見ていただきたい。写真では、文字も刻まれているようだ。おそらく「張氏作...」とあるだろう。
一方、日本から出る三角縁神獣鏡には
”400面程に達している三角縁神獣鏡の銘文には「陳氏」や「張氏」、「王氏」などの中国人の作者名があり、その製作には複数の中国人の鏡作り工人がかかわっていたことが判る。”(以上東京大学総合研究博物館「真贋のはざま」西野嘉章
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2001Hazama/07/7126.html
から引用。)
と、張氏作の三角縁神獣鏡が多くあるらしい。


三角縁神獣鏡は中国から出土していない、と主張する人は上記「張氏車騎神獣画像鏡」についてどうコメントするのだろう?
2004年に書かれた本HPが投げかけた疑問を14年経った今改めて蒸返したい。
 

古代鏡製作所の上田合金さんはどうなったか?

 昨日の記事に出てきた上田合金さんは今も健在だろうか?

aki104.hatenablog.com

 

気になって調べてみた。

社長の上田さんが亡くなられて会社も畳んだ。

しかし、その意思を継いで、藤綱合金さんが頑張っておられるようだ。

東大坂ネットdeマッチ

https://hocci2.sansak.jp/indexpc.php

 を開いて、キーワードに「藤綱合金」と入れると出てくる。

URLはなさそうだ。

先月には下記催しをやったらしい。

砂型で銅鏡作り&鋳造現場体験ツアー – 一般社団法人東大阪ツーリズム振興機構

ということで、ご活躍中と知ってほっとした。

説明からは、銅鏡も銅鐸も作られているらしい。

鋳造した銅鏡を鏡に仕上げる方法も伝授しているらしい。

こうした、過去の事物を現在に再現する、いわば実験的考古学による理科的知識の蓄積が大切だと思う。

 

古代鏡はどうやって作ったか?

古代鏡はどうやって作ったか想像したい。

以下の手順だ。

1.基本の「型」を作る。あるいは既成の鏡を「型」として用意する。

2.「型」の「逆」(鋳型)を作る。鏡の場合鏡面側と模様面側の2個の「逆」(鋳型)が要る。

3.二つの「逆」(鋳型)を合わせて、溶かした白銅を流込む。

4.銅が固まったら、「逆」(鋳型)を壊して鏡を取出す。

5.鏡面側を磨いて鏡に仕上げる。

参考にしたのは以下の上田合金訪問記(2007.2.24)だ。

「古代鏡製作」http://inoues.net/study/takaida.html

本HPは実に素晴らしいHPで、以下を学ばせてもらった。

a)「逆」(鋳型)は砂を固めて作る。梅原末治さんの漢三国六朝紀年鏡図説にもそうあった。

b) 「逆」(鋳型)を粉々に壊さないと鏡を取出せない。「逆」(鋳型)は2度と使えない。従って同じ鋳型を使った同範鏡などは存在しない。基本の「型」から複数の「逆」(鋳型)を用意して作る同型鏡は存在する。

c) 紐を通す穴は「逆」(鋳型)に心棒を設置して作る。

d) 鏡は鏡面が凹なのが基本。理由は書いてない。しかし私も実用性からそう思う。

 

古代鏡職人は、基本の「型」を作る上で、過去の鏡を参考にした。

むしろ多くの場合、過去の模様をそのまま取入れただろう。取入れ、いくらかの修正を加えて新しい「型」を作った。

例えば、三角縁神獣鏡などは、「早く、大きな鏡を作れ。」と命令され、過去の中型の鏡の模様をそのまま使いそれに単純なパターンをもつ外周部を付加して大きくし、言わば嵩上げして作ったのではなかろうか。

大きくすると熱収縮した時の全体のバランスが崩れて割れてしまうものも出た。そこで外周を厚くしさらに縁に三角形の出っ張りを付けた。

どうも、三角縁神獣鏡を眺めているとそのように思えてしまう。

 

古代鏡はすべて鏡面が凸だったか?

 

aki104.hatenablog.com

 梅原末治さんの漢三国六朝紀年鏡図説ではすべての鏡が鏡面が凸(凸面鏡)だった。

凸面鏡では顔が小さく映る。車のミラーと同様だ。

そうした鏡の実用性は何だろう?

化粧用くらいか。あまり思いつかない。

やはり鏡は単なる威信財だったか?

逆に細部を拡大してみたいときには凹面鏡が欲しい。

点火用にも凹面鏡は使える。

ギリシャオリンピアで聖火を得る時に凹面鏡を用いる。

凹面鏡の古代鏡はあっただろうか?

実はあった。多鉦細文鏡という。

Wikipedia 「多鉦細文鏡」によると、韓式の古鏡だそうで、日本にはまず多鉦細文鏡が渡来し、後に中国式の鏡が伝わったらしい。

岡崎敬さんの本(名前は忘れてしまった。機会を見て調べる。)では唐津市宇木汲田遺跡から出土した多鉦細文鏡では、直径10.5cm、凹面の反りは0.2cmとある。

これだけの情報から、放物面を仮定して焦点距離は34㎝と計算できる。

つまり、太陽光を反射すると34cmのところに焦点ができる。

太陽光を使って火を起こすのに手ごろな距離と言える。

もっと焦点距離の長いものを作りたいなら反りを少なくする。

反りの少ない反射面のほうが作りやすい。

 

梅原末治「漢三国六朝紀年鏡図説」1984年版から

f:id:Aki104:20181205090500j:plain

梅原末治「漢三国六朝紀年鏡図説」1984年より引用。魏4が、日本で出土した正始元年の紀年鏡である三角縁神獣鏡。中国では三角縁神獣鏡は未だ発見されていないという。

梅原末治「漢三国六朝紀年鏡図説」1984年版から137ページ目を引用した。

図は掲載された紀年鏡の断面を示す。大きさは右下にある尺度からわかる。

魏4が日本で出土した正始元年の紀年がある三角縁神獣鏡だ。

一目して、三角縁神獣鏡が異様に大きいと感じる。六朝23だけが三角縁神獣鏡より大きい。これは南斉の頃の鏡であって魏よりずっと後の時代だ。

三角縁というのは縁が三角形の断面をしているからそう名付けただろうと考える。

確かに、魏4の断面では縁が三角形だ。

しかし、この部分の形状でもって鏡を分類するのにどれだけの意味があるだろうか?

例えば、魏4の真下にある呉28は限りなく三角形に近い形状だ。これも神獣鏡だ。

他にも、断面形状が魏4に似た鏡は上図の中でもたくさんあると感じる。

以上、「三角縁」という区分法の意義がよくわからない者のつぶやきだ。

漢三國六朝紀年鏡図説(梅原末治著)を借りた

f:id:Aki104:20181121115032j:plain

漢三國六朝紀年鏡図説(梅原末治著)を借りた[1]。超大型本で重い。

   [1] 梅原末治著「漢三國六朝紀年鏡図説」1943年版、1984年版(復刻本か?)

以下気づいた点を列記する。

1)掲載された鏡の枚数

漢の時代の紀年鏡(年号の入った鏡)38枚、

魏の紀年鏡 8枚、

呉の紀年鏡 62枚、

六朝西晋東晋、宋、斉、梁、陳)の紀年鏡 23枚、

贋作品と贋作品の型 10枚、

の写真がある。同型の紀年鏡は何枚あっても1枚とするから実数はもう少し多い。

贋物を除くと131枚ある。うち62枚が呉の年号をもつ。呉の鏡が非常に多いという事になる。呉は鏡の生産が盛んだったらしい。

2)日本で出土したもの

うち日本で出土したのは魏鏡2枚と呉鏡2枚だ。1943年の時点ではこの4枚のみか。

3)三角縁神獣鏡

魏鏡2枚は正始元年(西暦240年)の三角縁神獣鏡だ。

他が大体3-5寸径に対し、7寸5分と異様に大きい。

異様に大きいけれども、中心付近の神獣パターンの部分は他の鏡と大きさが変わらず、大きくなった外周部分のパターンは波線やら三角形パターンといった単純な模様で作ってある。ある意味上げ底をして無理やり大きな鏡を作ったように見える。

4)鏡の断面図

137ページに掲載された鏡の断面図がある。

すべて鏡面側が凸(膨らんでいる)だ。鏡面側が凸だと映した顔は小さくなる。こうした鏡の実用性はほとんどないだろう。鏡面側が凹(へこんでいる)だと、例えば儀式において太陽光を反射させ火を起こしてみせるなどに使用できる。

三角縁神獣鏡では外周部分が厚くなって、縁にさらに三角形の小さな出っ張りがある。厳密にこうした断面形状をもつ鏡は他にない。

しかし、この三角形の小さな出っ張りをもって鏡の特徴とするのは、どんなものだろうか?私には腑に落ちない。

5)贋物

古代の鏡は珍重されたから後代の贋物も多い。

原理的には、本物を「型」に使って「逆」を作り、これに溶かした銅を流しこめば贋物ができる。あるいは「逆」に文字を加えるなどの細工をして未発見の古代鏡らしく作ることができる。

贋物の「逆」(鏡笵または鎔笵)の写真もある。こうした「逆」は砂を固めて作ったとある。本物においても同様の製法で鏡をつくったのかもしれない。

 

「親魏倭王」の印影がある!??ーその2

 

aki104.hatenablog.com

親魏倭王」の印影が「宣和集古印史」という書にある。印影は楽篆堂さんのHP

http://www.lucktendo.co.jp/blog/2013/12/post-431.php

で見える。

素人の私が見るとその字体などいかにも擬古的であって本物のように見える。

そこで、他の金印である、「漢委奴国王」「滇王之印」「廣陵王璽」と比べる。こちらの印は皆

https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54271842.html

から見える。

ここで「王」の字がすべてにある事に着目したい。

その「王」の字について、「親魏倭王」の「王」は中の横線が不自然なほどに上に位置する。

そうして「滇王之印」も同様だ。

一方、「漢委奴国王」と「廣陵王璽」の「王」の字では、中の横線はほぼ真ん中の高さに位置する。

また、文字の角の丸みも「滇王之印」に似ている。

それに対して「漢委奴国王」と「廣陵王璽」では角が尖っている。

つまり「親魏倭王」の印影は「滇王之印」に似ている。

それに対して「漢委奴国王」と「廣陵王璽」は違っている。

製作年代は、「滇王之印」は三国時代から300年も遡る前漢時代だ。

「漢委奴国王」と「廣陵王璽」に後漢時代だ。

親魏倭王」は三国時代だから後漢の直後だ。

三国時代の「親魏倭王」の印影が、後漢の印と異なり、ずっと古い前漢の印と似ているのはどういう事だろうか?

以上から「親魏倭王」の印影は後世(明時代?)のにせものだと想像する。

にせもの作りの作者は前漢時代のいくつかの印影を見て知っていて、それをモデルにして三国志に記載のある「親魏倭王」の印を安い銅または木で作り、その印影を本(印譜という)に残した。

なぜそんな手の込んだことをするかというと、当時古代の印の印影を集めた印譜は高く売れたからだ。中でも北宋徽宗が作らせた「宣和印譜」が現存すれば法外な値段がつくはずだ。

「宣和集古印史」はそうして作られたものだ。

そのように想像して改めて「親魏倭王」の印影と「滇王之印」を見比べると、「滇王之印」に古代らしい素朴さが見られるのに対し、「親魏倭王」の印影はちょっと技巧的過ぎて、近代的印鑑製作技術を使っているように見える。