わからんから面白い魏志倭人伝

三国志の時代の魏志倭人伝にはわからん事が多い。わからんからそのまま想像力を働かして楽しんじゃお!

2018-01-01から1年間の記事一覧

魏からの返礼の使節が遅れたわけ

卑弥呼の使者は西暦238年6月に魏に着いた。しかしその返礼の魏の使節は遅れて西暦240年となる。 なぜ遅れたか? 実は、魏に敵対する南の呉の水軍が西暦239年3月に遼東半島を攻撃して住民を捕虜にしている[1]。 [1] 三国志呉書呉主伝 (三月..之遼東擊魏守…

卑弥呼もって死す(卑彌呼以死)

魏志倭人伝に 卑弥呼もって死す(卑彌呼以死) とある。ここでなぜ単に「卑弥呼死す」と言わずに「もって(以)」を加えたか? そういう疑問が出る理由は、 卑弥呼が狗奴国の男王卑彌弓呼と素より不和だった; 遣塞曹掾史(中国の役職)の張政が詔書(皇帝の…

倭と呉は直接交易できたか

三国志の時代に、倭は(魏を差置いてその南の)呉と直接交易できたか? なぜそのような疑問をもつかというと; 1.古事記に「呉」は出てくるが「魏」は出てこない。 2.そもそも弥生時代の米は中国南部(つまり呉の地域)から来ている。これも交易の結果だ…

呉の孫権は夷州(台湾)を探させた

呉の孫権は衛溫と諸葛直に夷州・亶州を探させた(西暦230年)。両将軍は夷州から数千人を捕まえてきた[1]。 ここで夷州は台湾とされる。亶州はよくわからない。 台湾は中国本土から見えるだろうか? 昨日の記事で富士山が262km先の八丈島の高台から見えた事…

八丈島から富士山が見えるー距離262km

まず、海上から富士山が見える範囲を考えてみる。 上式で、R=6400km、H=3776m(富士山の高さ)、h=1.6m(人の身長)をm単位をkm単位にそろえてから代入すると距離は224kmになる。 これは伊豆諸島方面では御蔵島より遠く、八丈島より近い。 ここでネットで探…

紀年銘鏡はたったの14枚

総計で4000枚ある[1] という古代銅鏡のうち年号の記載のある紀年明鏡は日本ではたった14枚しか出土していない。そのリストが上図だ[2]。 [1] Wikipedia 「三角縁神獣鏡」 [2] Wikipedia 「銅鏡」より抜粋 例えば、上図の和泉黄金塚古墳出土の紀年銘鏡には 景…

卑弥呼の銅鏡-2

上図はPublicDomain 画像を編集。東京国立博物館 in Wikipedia 「銅鏡」 上図に「景初三年」という文字が見える。 見えないという人は左半分真ん中より少し上に四角で囲われた「三」の字を見つけて欲しい。その字の左斜め下、図左下隅に四角で囲われた「年」…

卑弥呼の銅鏡‐1

(上図)Public Domain 画像を編集、東京国立博物館 in Wikipedia「銅鏡」 上記図は蟹沢古墳出土の三角縁同向式神獣鏡の一部だ。 上図の時計の1時の位置から3時の位置までに 「始元年陳是」 とある。欠けた12時の位置には「正」の字があったと類推して、…

卑弥呼の贈り物

西暦238年の卑弥呼の贈り物は生口10人と布2枚という寂しいものだった。 余程急いでいて贈り物を集める余裕がなかったに違いない。帯方太守に新任したばかりの劉夏も急がせただろう。むしろ魏の中央をよく知っている劉夏が主導したかもしれない。 内容よりも…

卑弥呼の使者は景初2年(西暦238年)に朝貢した

景初2年(西暦238年)1月、司馬懿と毌丘儉(かんきゅうけん)が遼東へ出発した(魏本隊)。同時に別動隊を船で密かに(魏潜軍)楽浪・帯方へ向かわせた[1]。 [1] 又潛軍浮海收樂浪帶方之郡 密かにというのはもちろん公孫淵に知られないようにとの意味だが…

卑弥呼の使者は景初2年か3年か

魏志倭人伝では卑弥呼の使者は景初2年(西暦238年)の6月に来ている。 一方、梁書では景初3年(西暦239年)とする。いわゆる学会の通説も景初3年とする。 なぜ景初3年が多いかと言うと、その時には独立勢力として楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が…

倭から洛陽へ

魏志倭人伝によると西暦238年に卑弥呼の使者が帯方郡を経由して洛陽に到着した。 その行程はすべて船だろうか? わからないが、海路の方が早いし距離が短い(直線距離)から、船を主に使っただろう。 まず北九州から壱岐へ渡海し、次に対馬へ渡海し、さらに…

「干支」と西暦年対応表

「干支」は中国流通し年号だ。しかしわかりづらい。そこで一覧表を示す。 今年2018年は戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)であって来年2019年は己亥(つちのとい、きがい)だ。 古い所では高句麗好太王碑に出てくる辛卯(かのとう、しんぼう)年は西暦391年にな…

韓半島が見えるか?

古事記・日本書紀で「海を渡って新羅を征服せよ」との神のお告げに対し、仲哀天皇は「海の向こうにそんな国は見えないではないか」と反対した。神に逆らった仲哀天皇はあえなくお亡くなりになった。 羅針盤もまともな時計もない古代の航海において、目的地が…

韓半島から倭へ;3ステップの渡海

図のように魏の使節は3つの海を渡って、韓半島から倭の本拠地へ来た。魏志倭人伝ではそれぞれを「渡海千里」と表現する。 実際にGoogleマップで最短距離を測るとそれぞれ、51km、49km、21kmとなる。港から港ではプラス数キロ増えるだろう。 以前に言ったよ…

三国史記に卑弥呼登場

朝鮮の新羅・高句麗・百済の三国時代の歴史を記した「三国史記」の新羅本記に卑弥呼が登場する。 173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)[1] [1] Wikipedia 「倭・倭人関係の朝鮮文献」 から引用した。 …

崇神天皇:ミマキイリヒコイニエの命

崇神天皇という漢語的言い方は後世の創作であって、 古事記・日本書紀では「ミマキイリヒコイニエの命」という。 音に出して読んでみると、ミマキ-イリヒコ-イニエ と分かれそうだ。 今回「イリヒコ」に着目する。 「ヒコ」は「彦」だろう。そうすると「イリ…

倭の五王

卑弥呼の時代から150年程経つと倭の五王が中国の史書に登場する。 允恭天皇の崩御年を加えることにより倭の五王との関連性が見やすくなったから、ここで、古事記の崩御年と中国史書に登場する倭の五王の年代を並べてみよう。 対応する天皇は、応神→仁徳→履中…

天皇の崩御年-3

古事記には15の天皇の崩御年が干支年で記載されている。 なぜこの15天皇のみか? 崩御年の記載は初めから古事記にあったのか? 後に付加えたものではないか? 等々の疑問が残る。 一方、日本書紀にはすべての天皇の即位年の記載があるけれども、初期の天…

古事記に出る馬

卑弥呼の時代に馬はいなかった。 魏志倭人伝に「倭の地には馬も牛もいない」とある。 一方、古墳時代には馬もいたし、鞍もあって馬に乗る事もできた。 では、いつ頃馬が登場するか? 普通には応神天皇の頃と言われている。古事記では応神天皇の崩御年は干支…

其地無牛馬

魏志倭人伝に 其地無牛馬 (倭の地には牛も馬もいない) とある。卑弥呼の時代に倭の地(北九州)には牛や馬はいなかった、と三国志の著者陳寿は断じている。 今は馬だけ考える。 本当に馬はいなかったのか? どうもいなかったらしい。当時の遺跡で馬の骨が…

再び人力の船

前に、人力だとせいぜい時速4-5kmしか出せないと言った。 本当にそうだろうか? 私が時速4-5kmと言ったのは先に示した学校の先生方の貴重な実験による[1]。 [1] 「縄文の丸木舟日本海を渡る : 縄文時代の再現に挑んだ教師達の記録 からむし会編」 隠岐から島…

倭人の船に帆があるか?

卑弥呼の時代に倭人は韓半島と北九州の間で交易していた、と魏志倭人伝にある。 その船に帆はあっただろうか? はっきりとはわからない。 当時の墓の石の壁に帆らしい柱が書いてあったりするらしい。 日本書紀には神功皇后が新羅征伐に行ったときに帆のある…

古代ギリシャの船を発見

古代ギリシャの船を黒海海底で発見したそうだ。 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181024/k10011683461000.html 2400年前の船らしい。どうやって2400年前とわかったのか?おそらく炭素14による測定だろう。 三つ着目したい点がある。 第一にマストがあ…

乖船南北市糴

魏志倭人伝には「南北市糴」という語が2度出てくる。 この意味は南北へ行って(主に米を)交易するということらしい。 一度目は対馬で、二度目は壱岐で、それぞれの島の島民が船に乗って「南北市糴」している。 という事は、韓半島と北九州の間で交易があっ…

年已長大無夫婿

魏志倭人伝に卑弥呼についての記述に 年已長大 とある。これを普通に解釈すると、既に年老いている、と考える。一般にもそう解釈されている。 ところが張明澄さんは「誤訳だらけの邪馬台国」で「長大」とは大人になった事をいう、とする。そうしてそのような…

やまととももそびめの命(夜麻登登母母曾毘売命)について

前回に書いたように、日本書紀に「やまとととひももそびめの命」が崇神天皇に助言する或いは「神の言葉を伝える」場面が有ると言った。実際2回ある。詳しくは日本書紀で確かめていただきたい。古事記にはない。 日本書紀では「天皇姑倭迹々日百襲姬命」と天…

「卑弥呼」は「やまととももそびめの命」か?

天皇名 古事記 崩御年 神武 綏靖 安寧 懿徳 孝昭 孝安 孝霊 孝元 開化 崇神 318 or 258 垂仁 景行 成務 355 仲哀 362 神功 応神 394 仁徳 427 履中 432 反正 437 允恭 454 安康 雄略 489 清寧 顕宗 仁賢 武烈 継体 527 安閑 535 宣化 欽明 敏達 584 用明 587…

「卑弥呼」は「ヒミコ」か

張明澄さんが著した「誤訳だらけの魏志倭人伝」に 「卑弥呼」は古代中国語では、「ピェ・ミアー・ハッ」と発音するとある。 つまり「ピミハ」らしい。 特に最後の「呼」を「コ」と発音しないのは、日本人学者も悩ませたらしく、どこかの本で言い訳がましい事…

天皇の崩御年ー2

前回の天皇の崩御年を上図にプロットしてみた。縦軸は西暦年だ。 上記プロットで、古事記の場合はおおまかに一直線上に配置するけれど、日本書紀の場合は仁徳天皇あたりで傾きが異なる。これから、古事記に記載の崩御年は信頼できそうだ、と感じる。 上のグ…